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蝦夷征討事業について...。
「蝦夷征討事業」ってなんですか?
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古代の日本は、中国から政治体制・思想などを導入していますが、その一つに中華思想というのがあります。天命が下された皇帝が全世界を支配する権利を持っており、その支配領域は中華と呼ばれます。その周囲で皇帝の支配に対抗する勢力は野蛮人であり、征服・服従させる対象となります。また周囲の野蛮人は皇帝の徳に服従すべきもので、皇帝はその徳にとって中華を広げていく・・・というのがおおまかな中華思想の説明です。ちなみに周囲の野蛮人は北狄・東夷・南蛮・西戎と呼ばれます。(古代の日本が中国にとって野蛮人であったことは、『後漢書』東夷伝に倭国の記述があることからわかります) さてこの中華思想を引き継いだ近畿地方を中心とする政権=大和朝廷は、彼らに従わない東国・東北、南西の人々を従えようとしましたが、その際に東北の人々を「蝦夷」と位置づけ日本的中華思想に反する存在として征討をすすめたのです。 具体的には7世紀後半から阿倍比羅夫の派遣、城柵の設置などをしています。8世紀には出羽国を設置し、鎮守府という蝦夷征討のための拠点をおいています。9世紀初頭には坂上田村麻呂を征夷大将軍として蝦夷を征討し、9世紀前半頃に一応終結することになります。蝦夷征討は軍事行動以外に、饗宴などでの懐柔もあり、大和朝廷に従った蝦夷は俘囚とよばれるようになります。平安時代中期以降は俘囚の把握により一応の安定を見るのですが、平安後期になると俘囚安倍氏が起こした前九年の役など起こります。 一応蝦夷征討事業という場合は、9世紀前半までの対蝦夷戦争のことをいいますね。新書などでもいくつかありますので、お読みになったらいかがでしょうか。
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- sqwe-ir
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魏志倭人伝では、現在の日本アルプス以北は、毛人と言う別の種族が住んでいたそうです。 初代の征夷大将軍は、大伴弟麻呂で、奈良~平安初期に生きた人間です。 この頃はまだ東北は制圧しておらず、実際に軍隊でもって戦っていたようです。 その後、東北を完全に制圧すると蝦夷征討事業はほぼ終了します。 征夷大将軍は、武士の長と言う、ただの官位になって行きます。 江戸時代では、現在の函館付近の松前藩が最北ですが、松前藩自体が寒冷地で石高が思うように伸びず、 ここが、米作の北限と考えていたようです。 しかし、それ以北の蝦夷地も軍事力をちらつかせ、 領民のように魚などの税を定期的に納めさせていました。 米が出来ない土地の有効利用だったようです。 小さな部族集団を作り生活する彼らには、この税は相当な負担になり、一揆のような反乱もありましたが、 話し合いをすると称して各部族の長を城に呼び、全員だまし討ちで殺害してしまうなどの強行的な手段で応じ続けたようです。
下記が参考になると思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7
お礼
ありがとうございました。 早速見てみます。
文字どおり「蝦夷」を征討する事業ですが、どこが分かりませんか?
補足
具体的に教えていただけるとうれしいです。 歴史は昔から大の苦手で基本的な事も殆どわからないんです...。ごめんなさい。
お礼
詳しく教えていただきありがとうございました。