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奈良・平安時代の城柵について
- 奈良・平安時代には東北地方の蝦夷を支配するために城柵が築かれました。
- 『柵』とは、城柵の一部であり、万里の長城のような壁ではなく、小規模な防御施設でした。
- 平安時代には城柵に役所群や倉庫群が置かれ、政治的な性格を持っていました。
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古代の東北地方には『城』『柵』などと呼ばれる施設が経営されていて、征夷大将軍を始めとして多くの兵士及び民衆が生活を営んでいました。 これらの施設は、東北地方山岳に潜む山賊の侵犯を防ぐために設けられた場合もありました。 しかしその主目的は、先住民・蝦夷に対する攻略のためでした。 国史(日本書紀、続日本紀、日本紀略、日本後記)に書かれている『城柵』は、『淳足柵(ぬたりのき)』を初出として19の城柵があるようです。 『城柵』の中でも広く世に知られていて、仙台近郊の『多賀城』については、発掘調査がなされており、建物の概要が分かってきています。 それによると、多賀城の外部はほぼ900メートル四方に及ぶ規模で、その城内の中央部には方100メートルを超す「内城」と呼ばれる政庁跡がありました。 この「内城」は、南北100数十メートル、東西100メートルほどの地域が築地で囲まれており、そこに「正殿」や「脇殿」が3棟配置されていて、南正面には八脚門形式と考えられる南門があったようです。 陸奥国府と鎮守府とがこの地に置かれていましたが、802年、征夷大将軍・坂上田村麻呂によって鎮守府の方は胆沢城へと移され、以後は国府としてのみ経営されました。 多賀城の概要は以上のようなものですので、後世の大坂城のような天守閣などを有する大規模な城とは違って、政務をつかさどる館があり、外郭と周辺に、武将、兵士を始め民衆が住んでいた場所であると考えられています。 多賀城も「続日本紀」に最初に記録されているときには「多賀柵」となっていますので、『城』と『柵』とは同様のもので、その規模の違いだけなのではないでしょうか。(これは私の見解ですので、間違っているかも知れません)
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- fujic-1990
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えっとね、今、アルバムを見ながら書いていますが、多賀城、金沢柵、厨川柵、秋田城(出羽柵)、衣川柵、払田柵、城輪柵、徳丹城、志波城などへ実際に行ったことがあります。 衣川柵とか、このあたりのはずだが、と思ったものの住宅地で位置を確認できなかったところもありますが、この中で、いわゆる「お城」らしきところは金沢柵(行った当時はなにも建物が建っておらず山城の跡のようでした。建物の代わりに、納豆発祥の地というモニュメントがあった)だけでしたよ。 あと、志波城が、広大な面積を全部塀で囲んで所々に城門みたいなのを造ってありましたが、中には広くてまっすぐな道路が復元されていたりして、どう見ても「政庁」でした。 志波城が洪水にあって壊滅したので、資材をもって移動して作ったのが徳丹城。徳丹城も、想像図と復元されたごく一部の施設の配置をみると、規模壮大ですが、ただの政庁です。国道4号線かな、走っていると、道の脇が徳丹城跡だったりします。 お尋ねの「多賀城」も政庁(途方もない広さ!)で、「戦いのための城」の気配は全然ありません。古代には、国庁がおかれ、奈良時代は鎮守府などもありました。 秋田城は、秋田藩の殿様が住んでいたお城かと思ったりするととんでもありません。殿様が住んでいたのは「久保田城」で、秋田城は平安時代?の政庁です。 おおむね、古代の柵や城は、行ってみると、朱塗りの柱のある土塀で囲われていて、中には、建物の四角い土台・土台跡が整然と並んでいたりしています。 要するに、一部の史家が言うようなすごい武力で圧迫を加えて蝦夷を支配しようとしたのではなく、大規模建築、荘厳な財物などのご威光をもって自発的に頭を下げさせようとした、というのが本当なんじゃないか、と思わせる施設です。 厨川柵は、蝦夷「安倍氏」の館跡ですので、まあ、ミニミニの城館と言っていいかもしれません。
お礼
さすが実際に行かれただけあって、すごく説得力があります! ありがとうございました。 私の中のモヤモヤも解消されたように思います。
確か、現代人が城と聞いて思い浮かべる天守閣というのは、 戦国時代末期にできたものだと思います。 松永久秀が大和多聞山城で作ったのが始めだったかと。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%81%9E%E5%B1%B1%E5%9F%8E その後の信長の安土城や秀吉の大阪城に引き継がれていきます。 それまでは、武家屋敷の巨大なものとか、、、 そういうレベルであって、 奈良、平安時代ともなるとそれよりもさらに小さなものではなかった のではないでしょうか。 まあ、お寺でも立派な建築物は残っているので。 柵=城と呼び名が違うだけと認識しています。 初期は「建物は全て掘立式。主要建物は瓦葺であったと考えられている」とあるように。 http://marie.saiin.net/~tochigi-castle/tagajyo.htm
お礼
やはりこの当時の城を、一般的な天守閣を持った城と認識しないほうがいいようですね。 ありがとうございます。 かなりスッキリしてきました。
お礼
なるほどっ! 多賀城などの城は、城といっても私が想像していた大坂城のようなものではないのですね(^^;) 国府のようなものだと理解しました。 そしてtechnatamaさんがおっしゃるように、 城=柵だとすると私としてもすべてが納得のいくものになります。 詳しい説明ありがとうございました。