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短歌・俳句での 文語体の口語表記は、いまや常識?
「た○○と歌」で知られる人のBBSに: 「文語体口語表記に違和感を覚えるのはアナクロニズムである」という趣旨の記述がありましたが、本当にそうなのでしょうか? 俳句でも文語調なのに口語表記してある句を見かけることがありますが、やはり違和感があります。時代錯誤、ウ~ム! お教えくださいませ。
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質問者が選んだベストアンサー
#2です。会話みたいになりますが、たまにはいいですよね^^;(ヒソヒソ) >すべての文章を文語で書く人にも違和感を感じます。 あ、それ、実は私も同じようなことを書こうと思いました。質問者さんのお言葉を借りると口語体文語表現でしょうか。ご質問の内容と違いますし、丸谷才一ファンに何か書き込まれそうに感じ、止めたのです(笑) これは、スーツ姿に草鞋ですかね^^; >いつの間にか慣れてゆくのかも知れませんね。 いつのまにか証明されるでしょう。 でも将来、「海のあおにも染まずただよう」なんて教科書に載っているかもしれませんね。冷や汗でそうです。
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- d-drop
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こんばんは。 #2の方も指摘しておられますが、「口語表記」ってことば(あまり聞きませんね)を「現代かな遣い」の意味と取って回答します。 新潮文庫でも、岩波文庫でも、角川文庫でも、戦後、現代かな遣いが制定されてからは、一応現代かな遣いを採用しています。しかし一葉や露伴の一部の作品など、文語文(擬古文)には歴史的(旧)かな遣いですね。鴎外の『舞姫』ももちろん旧かな。 だから、俳句も、文語の俳句は旧かなで、口語の俳句は新かなでいいと思います。「かな」とか「けり」で句を止めながら、新かなはないでしょう……と私は思うんですが。 その人のお考えということでいいんじゃないんでしょうか。 追記:こんな世情だと“アナクロニズム”がほめことばになる日も近いのではないかと……。
お礼
ありがとうございました。
- luune21
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俳句に詳しくないので用語がよく判らないのですが、口語表記というのは現代かなづかいのことでしょうか?(前提) もうしそうであれば、違和感ありますよ。 佐渡に横たふ天の川→佐渡に横たう天の川 これは、芭蕉だからではなく現代人が書いたとしてもちょっと不思議な感覚じゃないでしょうか。 しかし、作者のポリシと言われればそれまでのような気もします。だとしても、過渡期の用法でいずれ無くなっていくのではないでしょうか。自信ありませんが^^; おそらく、"文語調でなければ表現できないものがある、しかし、歴史的かなづかいはしたくない"ということなのでしょうね。わからなくもないのですが、時代錯誤というのは、「うるさい黙れ!」という感じですね。 俳句や短歌でなければ、いいんでしょうか。 紛ふことなきをんなの友情であった→紛うことなきおんなの友情であった。 あ、いや、やっぱり違和感ありますね。 前提が違っていれば、無意味な回答だと思います。そのときはご容赦くださいませ。(^^;
お礼
ありがとうございました。 花火見物や盆踊りで小学生くらいの女性が浴衣を着てスニーカーをはいてる姿を見ますが、なるべく見ないようにしています。別の機会では成人の女性が浴衣を着て草履をはいている姿を見ました。私の感覚では下駄が正解のような感じで違和感をおぼえました。阿波踊りなどは草履なので私の感覚に問題ありそうですが……納豆に砂糖をかけて食べる人たちもおられますし……いつの間にか慣れてゆくのかも知れませんね。 すべての文章を文語で書く人にも違和感を感じます。これは、違和感というより、むしろ嫌味ですね。背後にある歪んだ自己愛みたいなものに
- caesar-x
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短歌・俳句自体が、多分にアナクロニズムそのものなので、 文語表記でも口語表記でも(悪く言えば)目くそ鼻くそでしょう。 作者の趣向・趣味次第じゃないでしょうか。 ただ文語表記を読めない日本人が増えているので 逆に(悪く)言えば時代に流された結果が、文語体口語表記じゃないでしょうか。 懐古趣味でも別に悪いことじゃないでしょう。 文語体口語表記が新しいってわけでもないし。
お礼
ありがとうございました。
お礼
丸谷才一さんの世代なら然程の違和感はないのですが、戦後民主教育も、かなり経ったころの世代の人なので……