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(芭蕉の句)「旅に病で」と「旅に病み」
1 旅に病(やん)で夢は枯野(かれの)をかけ廻(めぐ)る 2 旅に病(や)み夢は枯野をかけ廻る 1はご存知、芭蕉の句です(表記は小学館、日本古典文学全集70による)。 仮に私が芭蕉と同じ句想を得たとします。その場合、字余りはよくないとの知識があるので私の作は2になると予想します。一方、俳句の心得がある方は、2ではなく1であらねばならないと、あるいは1の方が断然優れていると、判定する筈です。どんな理由に拠りますか、芭蕉の代弁を希望します。 字余りに加えて、「旅に病(やん)で」は「旅に病(や)み」に比して幾分か口語色が強くなる気がする点からも私だと2にしてしまうと思います。ご回答には注文といって特にはありませんが、字余りと口語色をどう考えるかに触れて下さるとありがたいです。 よろしくお願いします。
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「病中吟」を論じるなど恐れ多いことですが…。 1.接続助詞「て」の意味 字余りとなる、そんな「て」の意味を考えるのに1番句(笈日記)ではなく、よりシンプルな次の句と2番句を比べます。 「旅にやみて夢は枯野をかけめぐる」(和漢文藻) 2番上五の「旅に病み」を動詞の連用形中止法と看做せば、一種の「切れ」が生じていますが、中七下五とは対等というか独立した事象の色合いが強まってしまい記述性が増し散文に近づきます。 また、別に連用形で「流した」ととった場合、因果関係のような一方向性だけが意識されて「旅」の持つ重みと離れた夢だけが空回りしがちです。 これが「旅にやみて」と、完了の助動詞「つ」の連用形中止法に由来する「て」が加わるや、状態を表わして下句を修飾する役割の中で、更に 1)時間的・論理的に先行する上五とそれに伴って生じた中七以下の関、 2)同時並列的に係わっている上五の事態と中七以下の事態、 3)上五の事態と中七以下の事態が逆説的に係わる、 などの輻輳性が高まり、その結果は上六字目となりながらも、それがむしろ単純な「て留め」のレベルをこえて、強弱共振し合い凝集力が増しているのではないでしょうか。 2.格助詞「に」の役割 どうしても上5で収めたいとしたら、2番句の「に」を「で」に変えたらいかがでしょう。 「旅でやみ夢は枯野をかけ廻る」 これについては「旅懐」の対比が参考になりませんか。 「此秋は何で年よる雲に鳥」(笈日記) 「此秋は何に年よる雲に鳥」(芭蕉句選) 3.発音便 はたして発音便を以って「幾分か口語色が強くなる気がする」ものでしょうか。 「松風や軒をめぐつて秋暮ぬ」(笈日記) 「松風の軒をめぐりて秋くれぬ」(俳諧曾我) 「なんで秋の来たとも見えず心から」(鬼貫)
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- ufoooo
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「旅に病み」の俳句だと、なんか芭蕉の願望的な感じがします。 「旅に病んで」だと、あえて字余りにしてまでも、事実として、 体験として、「夢は枯野をかけめぐる」が生きてくるような気がします。
お礼
このように感じる方が居られるのは分かりました。 こういう感じ方の違いが何故に生じるのか、論理の展開を希望しています。「字余りにしてまでも」とおっしゃるのですから、感じ方の違いは「字余り」以外にあるのだと思います。 有り難うございました。
ヤスパースもくわばらも知りませんし、これが辞世の句かどうかも分かりませんが、私は芭蕉のこの句が大好きです。ただ感性だけで 1)でなければならないことを説明してみようと思いますが、納得していただけるかどうかは分かりません。 芭蕉は旅の途中で寝込んでしまい、好きな旅を断念せねばならないことを非常に残念に思っているようです。現実にわが身は寝込んでいるのだけれど、がばっと起きて痩せた毛脛もあらわに立てひざで居直り、夢の中でもいい、冬の荒れ野原(これも凄い表現ですね)でもいい、ともかく何処かへさまよい出たい、自由に走りまわりたいと思っている自分の切なる願望を示している。それが「やんで」という字余りと口語色でひしと表わしているのではないでしょうか。 2)のようにおとなしく寝込んでいる様子はなく、彼の焦り、不安定な心とからだの動きの予感のような情緒を感じさせます。秀逸な技巧表現だと思います。
お礼
2だと、「おとなしく寝込んでいる様子」に終わってしまうという訳ですね。そうなんですかねえ。 2を書いて提出すると日頃から定型を守れ、文語に従えと指導してくれている先生が「これでは『おとなしく寝込んでいる様子』しか表れていないぞ」と言って朱を入れ、1に直してくれる訳ですか。そうかもしれませんが、お見通しの通り、私には唐突なようで、よくは分かりません。しかし、こういう感じ方があることは分かりました。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。 こんな具合に、引き続き2ではならない理由を上手に説明して下さるご回答を希望します。何らかの理由で1が優れている事に異存はありません。
- wisemensay
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文学(詩)は感性での了解(この了解とはヤスパースの定義です)と思っていましたが、形式性あるいは規則性から判断しようという珍しい試みですね。字余りについては、質問者の言うとおり、規則違反ですね。これについては、世界最短詩形の不自由さとでも言う他はありません。口語色については、口語、文語いずれが良いかという基準は存在しません。 結論としては、2でも構わないということです。その理由は、桑原武夫の「第二芸術論」にあります。
お礼
1 「ヤスパースの定義による了解」について、少し調べようとしましたが、やっつけ仕事は通用しませんでした。知った被りが、どれほど悲惨な結果を生むかは身近な所に幾らも例があるので、「ヤスパースの定義による了解」の意味は承知していないことを白状しておきます。 2 ヤスパースといって連想するのは軸の時代です。よほどぼんやりした人間でなければBC5~6世紀辺りからの巨人の集中的誕生に気が付いて、この頃に地球的規模で何かが起きたと察知するのだと思います。いくつか自己流の仮説を立てて調べ始めたところ「軸の時代」にぶつかりました。ユーラシア大陸の騎馬民族の南下が大きく影響している程度の記憶しか残っていません。理解力も記憶力も悲惨なもので嘆かわしいです。 3 俳句については毎日曜日の朝、寝ぼけ眼でテレビを見ているだけです。定型を守り、文語に従うよう講師が述べます。今回の質問は、ここから生じた素朴な疑問です。私に難しい主張は何~んにもありません。 4 「第二芸術論」は1946年の発表だそうで、もう63年も経ちます。俳人の側から何らかの反駁があったのでしょうか。それとも反駁はなくて桑原説をあっさり認めているのでしょうか。私自身は、俳句は「文芸」であるが「文学」と呼ぶには無理があると思っています。「をととひのへちまの水も取らざりき」、作品の本体は17文字に過ぎず、本体の何倍もの予備知識がなくては、この句を理解できないとあっては独立した作品と呼ぶのに無理があると思います。俳句は短すぎて文学には成りにくいと思います。 ただし、一生の仕事とするのに何かに比べて劣るとも思いません。文化の成熟した社会では「芸」を仕事に選ぶことも立派なことだと思います。 5 定型は守り、口語と文語には拘らないお立場であることが分かりました。一つの見識かと思います。 有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。
- spring135
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字余りと口語色ということですが観点がずれています。 一言でいえば、深い深い詠嘆の気持ちです。芭蕉の辞世の句です。万感込めて、一生を集約して見事にまで彼の生涯を歌いきっています。 2にすると「旅に病み」という事実説明と「夢は枯野をかけ廻る」という情念の世界が完全にちぐはぐで、木に竹を接いだというか、気持ち悪くてしょうがない。論外です。
お礼
只今、日付が変わって13日(月)になりました。補足欄の問い合わせには返信がないものと判断しても失礼ではない思い、締め切ります。
補足
spring135さんへ 観点のずれた事を質問しちまったそうで失礼しました。勘弁して下さいまし。 このご回答には何の引っかかりもありません。分かりましたと済ますことはできます。ただ、このご回答に私が如何なる反応をするかを皆様に知っていただくことは、今後回答を寄せて下さる方々と質疑が噛み合うための資料になろうかと思い、少し記します。 ご回答から、辞世の句であることが鑑賞する上でのキーポイントなのだと判断しました。となると確認しておかないとなりません。そこで観点のずれた質問をしてしまった私奴からspring135さんへの確認です。 1 支考は、この句を芭蕉の辞世の句ではないといっているそうです。支考説は誤りなのですね。 2 井本農一氏と堀 信夫氏の少なくともお一人は、この句を芭蕉の辞世の句ではないといっています。これは誤っているのですね。 3 ご回答の文中に「彼の生涯を歌いきっています。」とあります。俳句は「歌う」ものなのですね。 4 「旅に病み」だと事実説明で、「旅に病で」だと事実説明でなくなるのですね。ここの違いこそ、この質問の要旨ですから、とても大事です。前者だと「木に竹を接いだというか、気持ち悪くてしょうがない。論外です。」なのに後者だと「深い深い詠嘆の気持ち」に変わる、この理由の説明を期待しているのが今回の質問です。説明していただけませんか。 以上4点につき、ご返事があると有り難いです。 ご回答は歯切れがよくて気持ちよかったです。4つの確認にも歯切れの良いご返答を期待しています。 今後、回答を下さる皆さんへ この質問は、どう鑑賞するべきかを問うてはいません。鈍感な私にも私なりの感じ方がありますし、優れた鑑賞が書物として随分出回っていますから味わい方には困っていません。字余りに拘らず、また口語的である(?)のにも拘らず、質問文の1でなければならない理由の解説を希望しています。感覚の問題だから文章として説明はできないというのであれば、もちろんお答は要りません。 よろしくお願いします。
補足
(お礼なのですが字数制限があるので、こちらを借用します。1、2、3は補足という解釈です。返信を求めるものでは有りません。) お蔭様で、もやもやした気分の正体が大分、明瞭になりました。恐らく、完了の助動詞「つ」との馴染みがないことからくる感覚の鈍さが原因だと思います。 1.接続助詞「て」の意味、に関連して 無意識ですが私の感覚は「旅に病み」を「動詞の連用形中止法」として認識しているのだと思います。「旅に病み」だと半呼吸ほどの間が入って、芭蕉作の滑らかさが消えてしまい上五と中七下五とが分断されてしまうことまでは気付いていました。哀しいことに、このことが記述性を増し散文化させてしまうという感覚はありませんでした。 「て」が完了の助動詞「つ」の連用形中止法であることは今初めて意識しました。これが入る事の効果、1)~3)の説明は見事なものだと唖然としています。特に3)の逆説的効果は私には分かり易かったです。これらのことが文法としてでなく無意識の感覚にまで高まっていれば、「旅に病み」だと記述性が増し散文化してしまうことが感じ取れるのかもしれないと思いました。 2.格助詞「に」の役割、に関連して 二者択一ならば「此秋は何で年よる雲に鳥」(笈日記)の、ぶっきら棒な感じを買います。ただし、私だと「此秋は何故に年よる雲に鳥」として診てもらうだろうと予想します。この感覚は「3.発音便」の項と関係しているのでしょう。私は文字にするとき、音便を避ける傾向があります。理由はわかりません。美しくないという先入観があるかもしれません。 効果を理解できたので最早、「旅にやんで」を「旅にやみ」とも「旅でやみ」とも比較したいとは思いません。 3.発音便、に関連して 折衷型で「松風や軒をめぐりて秋暮れる」、もう一方は「なぜ秋の来たとも見えず心から」として診てもらうことになると予想します。意識した場合を除けば私は音便を避ける傾向があります。話し言葉の中では考えている閑がないので、どんどん用いてしまいます。多分、個人的な癖だと思いますがこの習性のせいで「音便は口語的」な気がしています。無関係でしょうが念のために記せば、私の言語感覚は東京周辺のものだと思っています。一般には音便が口語的とは言えなそうだし効果的な用法があることも理解できました。 これが今回の質問に対しては決定版のような気がします。 こういうご回答が登場せず、いつまでも納得しないでいると質問ではなく芭蕉作の1を否定する意見表明だとして削除されそうだなあと思っていました。大げさな表現ですが学問上の真理の追究が商売上の都合の範囲に収まって、よかったです。 このご回答で十分ですが他の方に補足の欄でお願いをしてあるので、勝手に締め切る訳にも参りません。12日(日)までは締め切らずにおきます。 説得力のある解説を有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。