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話の関連性がよく分かりません。

・イギリス東インド会社 ・ムガール帝国 ・シパーヒーの戦い この3つが歴史の中でどのように関連していたのかがよく分かりません。なるべく分かりやすく説明していただけると幸いです。

質問者が選んだベストアンサー

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  • aminouchi
  • ベストアンサー率46% (376/804)
回答No.3

インドという地域は多様な民族と複雑な地形のために統一国家ができにくい所なのですが、かろうじてヒンドゥー教という宗教がインド人という意識の統一を形作ります。そうした中で16世紀半ばに現在のインドに近い領域を政治的に支配した統一国家がムガール帝国です。 ただ、ムガール帝国はイスラーム教国家で、その始祖であるアクバルはヒンドゥー教徒に対しても配慮した政治を行ったのですが、6代目のアウランゼーブ(アウラングゼーブとも言う)はイスラム教徒優遇・ヒンドゥー教徒弾圧政策を行いヒンドゥーたちの協力が得られなくなり18世紀初めのアウランゼーブの死後帝国は崩壊に向かいます。 一方で15世紀末にインドに到達したヨーロッパ人は、17世紀に入るとイギリス・オランダ・フランスがそれぞれ東インド会社を作って貿易における独占権を与えインドとの貿易を行います。このインドにおけるヨーロッパ列強間の競争に勝ったのがイギリスです。当初は貿易会社であったイギリス東インド会社は18世紀半ばのプラッシーの戦いに勝ったことをきっかけに、ベンガル地域の徴税権を得て、インド統治への道を歩み出します。 なお、これが可能になったのは、もはやムガール帝国は有名無実なものとなっており、各地にラジャやマハラジャと呼ばれる藩王たちが実質的な統治者として君臨しており、インド自体が分裂していたからです。東インド会社は軍事力を背景としてこれらのラジャたちと同盟を結んだり、シク戦争・マラータ戦争・マイソール戦争などで、統治権を拡大し、ついには19世紀にはインド全域を実質的に支配するようになります。 これに対して19世紀半ばにインド民衆の側から起こった反乱がシパーヒーの反乱(普通は「シパーヒーの戦い」とは言わないと思いますが)です。この反乱はインド側に明確な指導原理が無く、名目的に残っていたムガール皇帝を押し立てて反乱の旗印としますが結局イギリスに鎮圧されて、皇帝は退位させられムガール帝国は滅びます。 また、19世紀前半に貿易独占権を廃止されていて、インド統治組織となっていた東インド会社もこの反乱をきっかけに解散させられ、インドはイギリスの直接統治下に置かれることになります。(なんと言ってもイギリス本国では単なる一会社であるものが、一国を統治する機関であるという変則的な体制がおかしかったのです。) 単純に言うと、インドには「ムガール帝国」という強力な国家があったが19世紀には衰退して名目だけの皇帝が残っていた。そのインドを「イギリス東インド会社」という会社が実質的に統治していた。植民地として支配されることに不満を覚えたインド人によるシパーヒーの乱をきっかけとしてムガール帝国は滅び、同時に会社も解散してインドはイギリスの直接統治下に入った、ということ。 蛇足ながら、現在のインド・パキスタン・バングラデシュなどの国家を政治的な統一体であるインドとしたのはイギリスによる支配がきっかけであり、イギリスからの独立の際に分離独立したわけです。

tentensora
質問者

お礼

詳しくて分かりやすかったため、全体の流れがよく分かりました。 どうもありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • karrin
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回答No.2

#1です  要約すると,イギリスがインドで東インド会社を経営していた。  その後,産業革命と、資本主義の発達は、19世紀以降の資源の調達と市場を求めて植民地の更なる拡大を呼び起こした。こうした植民地経営を求めた資本主義のあり方を帝国主義と言い、特に世界中で帝国主義に基づく植民地を経営し、日の沈まない帝国となっていたイギリスを指して大英帝国と呼ぶ 19世紀中葉にはシパーヒーの乱を鎮圧し、同時に形ばかりの上で存続していたムガール帝国を完全に解体。イギリス女王ヴィクトリアをインド皇帝とするインド帝国を成立さた。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE...
  • karrin
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回答No.1

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