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オスマン帝国・について
・オスマン帝国はイスラム信仰で結合しているため国土民族の観念が乏しいと習ったのですがなぜでしょうか? ・オスマン帝国とロシアは何故戦争をしたのですか? (露土戦争) ・オスマン帝国での「スルタン」というのは何なのでしょうか? ・イギリスがムガル帝国を支配するときにインド統治法からザミンダーリー制に変わったらしいのですが違いはなんでしょうか? 質問数が多いですが宜しくお願いします。
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- ss79
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イギリスがインド経営に乗り出したのはムガル帝国末期の衰退期に当たります。 東インド会社は当初貿易を主体として発足したのですが次第に大きくなり、軍隊を抱えるに至り貿易港周辺から周辺の群小藩侯の支配地を占領しついにムガル帝国を滅ぼしたのです。 これがセポイの反乱でこの時反乱側に担がれたムガル帝国最後の皇帝はビルマ(今日のミャンマー)に流されて病没しました。 全インドを手に入れたイギリスは税金の徴収の便宜を図りムガル帝国の特権階級であったザミンダール(旧藩侯を含む)を地租の徴収者としこれに地税を課すという二重構造のザミンダーリー制を敷きました。 これはムガル帝国の税制は多くの項目に分かれていて優秀な官僚がいてこそ機能するもので、その管理業務を継続することは官僚制度が崩壊しては維持出来なかったという事情がありました。 又直接の徴税はザミンダールでありイギリスではないという形で後ろに隠れる事が出来、且つ徴税事務が簡素化出来る利点がありますが、ザミンダールが中間搾取する事を許しインド大衆の貧困をひどいものにしました。 さらにイギリス綿業の輸出先をインドに求め空前の繁栄の基礎を築きましたが、インドの零細な綿業は壊滅的な打撃を受け、益々イギリスへの隷属を深めていきました。
- gardenernaga
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最初の質問にのみお答えします。 ・オスマン帝国は、神からイスラム教世界の統治を任されたスルタン(皇帝)が支配するというたてまえなので、トルコ民族主義とはまったく関係ありません。 オスマン家自身、アナトリアの片隅で国を作る前は、どこで何をしていたのか、一応トルコ民族の一派の族長だったという伝説はあっても、事実は確認されていません。徳川家が家康の祖父以前はどうだったか、はっきりわからないのと同じで、一種の山賊だったという専門家もいます。 また、コンスタンティノープル陥落以降、オスマン帝国はローマ帝国の後継者としての統治意識も持つようになりました。つまり、ある特定の民族や領土を支配するのではなく、全世界(キリスト教世界とイスラム世界)の支配者(のつもり)だったのです。 歴代のスルタンは西欧系の白人女性との間に子供をもうけ、代々混血を続けたため、スルタン自身自分を「トルコ人」とは思っていませんでした。また、当時「トルコ人」を意味する言葉は、「アナトリアでヒツジを飼っている田舎もの」くらいのニュアンスを持つ差別語でした。むしろ、オスマン帝国ではトルコ人は冷遇されていたと言っても過言ではありません。実際、「トルコ人」が主体の国家という考え方は、帝国末期になって支配地が次々と民族国家を作って独立していくなかで、軍人や知識人の間に現れたものです。 スルタン直属で当時世界最強と(西洋では)いわれたイェニチェリという軍隊も、成員はトルコ人ではなく、バルカン半島の占領地に住むキリスト教徒の子弟を徴用して編成していました。これはイェニチェリが身分としては奴隷なので、イスラム教徒を奴隷にしてはいけないという宗教的理由も絡んでいます。ハーレムの女性も奴隷身分なので、同じ理由があったのでしょう。 別個にスィパーヒなどアナトリアに封土を持った騎士階級の軍隊もありましたが、オスマン家が領土を広げる以前、ビザンティン帝国時代からすでにアナトリアに群雄割拠していた戦国大名みたいなのを、帝国が拡大していく過程で家臣にしたと考えていいでしょう。これには民族的にトルコ人であるものも、そうでないものも含まれていました。 地中海沿岸に進出するとき、オスマン帝国は各地の海賊の頭を大臣や提督に任命して、海軍を編成していました。なかにはキリスト教徒の海軍司令官もいました。もともと遊牧民のトルコ人は、あまり海軍にもいませんでした。もちろん船をこぐのは奴隷で、これもキリスト教徒が主体でした。 地方で徴税を行うのも、トルコ人ではなく、商才にたけたギリシア人など徴税請負人の仕事でした。これらの請負人は中央政府に差し出す税金はなるべく少なく、地元から搾り取るものはなるべく多くというやり方だったので、帝国の大きさにくらべ中央政府が小さい(官僚が少ない)わりに地方は重税で、反乱の原因となりました。 一方、イェニチェリは奴隷とはいえ、しだいに特権階級化して、しまいにはスルタンの廃立さえ行うようになり横暴を極めました。最後には改革派のスルタンの命令で皆殺しにあいました。 スルタンにつかえた政治家、宰相や官僚や技術者たちも、実はトルコ人は少数派で、元イェニチェリが多く、ということは、元はキリスト教徒ということです。名前はトルコ風でも、実際の出自は西欧系が目立ちます。 第一次大戦でドイツ側について敗北したとき、オスマン帝国は連合国に占領され、解体の危機に立たされたのです。ところが、そのときもスルタンはトルコ民族の生活場所すらなくなりそうな状況に配慮することなく、英仏と交渉して自分の保身を図ろうとしました。 その結果、ケマルを中心とするトルコ民族主義の人たちが危機感を持ち、一種の革命を起こして、スルタンを廃位し、「トルコ人の生きていく土地」として現在のトルコ共和国を建国しました。スルタンの一族は追放されて、その後フランスやイタリアで生活しています。
- nacam
- ベストアンサー率36% (1238/3398)
>・オスマン帝国はイスラム信仰で結合しているため国土民族の観念が乏しいと習ったのですがなぜでしょうか? このご質問の意図が分かりません。 イスラム信仰と、民族観念とは全く関係有りません。 そのような、意味不明の事を教える人の教養を疑います。 オスマントルコ崩壊の時、トルコ民族の結束によって、現在のトルコが維持されました。 その後のアタチュルクの改革も、トルコ民族の改革意識があったからにほかなりません。 露土戦争の原因は、多々有ります。 ロシアの立場としまして、 1.トルコに支配されている同族であるスラブ人の解放 2.ロシアが温暖な地を求める欲求 3.聖地エルサレムの管理権を求めて 4.トルコの支配地域に、オーストリアやイギリスフランスの勢力が伸びてくるのを阻止する 特にセルビア、ルーマニア、ブルガリアなどの正教圏は、確実にロシアの勢力下におく必要があったため。 といった事が考えられます。 トルコ側としまして、 1.勢力が衰えつつあるため、ロシアの言いなりになる事は、他の地域の分割を許し、その結果オスマン-トルコの崩壊につながる事になる。 2.ロシアに勝てれば、トルコの退勢を抑える事ができる。 3.当時の支配地域を簡単に失う事は、できない。 といったことでしょう。 「スルタン」は、実世界の統治者をいいます。 キリスト教世界の「皇帝」・「王」に相当する言葉で、「教皇」に相当する言葉は、「カリフ」です。 ただし、シーア派では、カリフを認めず、「イマーム」を使用します。 ムガール帝国につきましては、知識がありません。
- 6dou_rinne
- ベストアンサー率25% (1361/5264)
>・オスマン帝国での「スルタン」というのは何なのでしょうか? Google等で検索してみてください。