• ベストアンサー

愛と憎しみについて

よく本や映画でも愛している「のに」憎しむ、殺してしまう、とか愛しているが「ゆえに」憎む・・・というものがありますが、 愛と憎しみとは反対のように思えるのですが、どういうわけでそのように転換がおこるでしょうか? 私はその愛する対象が自分の思う通りにならない場合だろう・・・とか簡単に考えていたんですが興味をもったのでご意見聞かせてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Helfgott
  • ベストアンサー率44% (66/149)
回答No.3

愛と憎しみは、   対象に対する「関心・執着・こだわり」が非常に大きく、   対象に対して抱く「感情の大きさ」が格段である という点で、同じ範疇に入るのだと思います。 同じコインの表と裏のようなものなので、何らかのきっかけ で、すぐに愛が憎しみに引っくり返るのでしょう。 「愛・憎しみ」の反対は、「無関心」ですね。

tomatooow
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • hiromumi
  • ベストアンサー率57% (8/14)
回答No.5

愛と憎しみが反対であるというのはキリスト教観念だと思います。 仏教には「愛憎」という言葉があり煩悩の一つですよ。 何よりも、「愛」という言葉に固定観念的イメージを持っているのではないでしょうか? 少なくとも愛はキリスト教概念です。 さらに、愛には「アガペー」と「エロース」があります。 「愛憎」の「愛」はその中の「エロース」とみなすべきでしょう。 「エロース」の延長は「所有」を意味することになると思います。 つまり、他人は自分のものという認識です。 認識の上では自分のものが他の人になびいたり、勝手な行動をすることは憎しみにつながっていきます。 人々すべてが「アガペー」という愛をもてれば、何の問題もないのでしょうが、人であるかがりそれは無理なんでしょう。 ここで、キリスト教観念と仏教的観念がつながります。 つまり、人が持つ「愛」は「エロース」である、つまり、それは「愛憎」という煩悩であるということです。 一般的にある「愛」の概念を掘り下げて考えるともっといろいろなことがわかるかもしれませんね。

tomatooow
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

noname#117439
noname#117439
回答No.4

人それぞれの状況によって千差万別だと思いますが、口では愛しているといって、本人もそのように勘違いしながら、実はまったく愛していなかったのでは無いかと思います。 性欲は煩悩。求める愛は愛欲という煩悩。 どちらも非人間的感情で悪意から生まれるものです。 憎しみに変わるのは正体をあらわしただけでそれが本来の姿だと思います。

tomatooow
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.2

愛している「のに」答えが返らない「から」憎むのだと思います。 愛し「合う」人間にとって、愛に答えることは暗黙の契約と同じですから、 答えが無いということは、契約不履行に当たります。 それに対する怒りが憎しみでしょう。 当然、愛が大きければ大きいほど、憎しみも大きく、、 相手が思い直して契約を実行する気にならなければ、 制御できないくらい憎しみが増大してしまう人もいる、ということだと思います。

tomatooow
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

回答No.1

おっしゃるように愛と憎しみは反対の感情です。 例えば+10と-10のようなものです。 数字の前の符号を変えるだけで、一気に 正反対のものになってしまうんです。 愛している人に裏切られたりすれば 瞬間的に憎くしみはじめます。 愛が大きいほど憎しみも大きくなります。 +10はどう転んでも-10にしかならないけど +100は-100になる可能性を秘めています。

tomatooow
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

関連するQ&A