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「和同開珎」について、教えてください。

日本史で習った「和同開珎」について、知りたいことがあります。 ●これが日本で最初のお金と考えて良いのかどうか。 ●どうして真ん中に四角い穴が空いているのか。 ●和同開珎が作られたことによって、当時の社会にどのような影響があったのか。 の3つです。 よろしくお願いします!

みんなの回答

  • sekai_s2
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回答No.9

日本最初のお金は、無文銀銭です。次が富本銭です。 無文銀銭は、九州王朝が発行した貨幣だとも云われています。和同開珎も周防国等の西日本でその多くが鋳造されました。 和同開珎は、発行枚数も少なく殆ど流通しなかったようです。従って、社会に殆ど影響を与えることはなかったでしょう。 また蓄銭叙位令などが示すようにヤマト王権が経済について疎く、貨幣の意味を理解していなかったかので、皇朝十二銭と呼ばれる新しい貨幣を次々と作って、勝手に新しい貨幣の価値を高くするなど無茶苦茶な政策を行なったのも流通しなかった原因と考えられます。 なお、日本全国で本格的に貨幣が流通するようになるのは平清盛らが宋から大量に宋銭を輸入してからです。 四角い穴は、鋳造した貨幣を切り離すときに出来た外側の出っ張りを削るのに四角い棒を通してまとめて処理するためのものですが、モデルとなった唐の「改元通宝」に四角い穴が開いていたので、それに倣ったのでしょう。またこの穴に紐を通して100枚ずつ束にして10個集めたものを1貫として、取引に使うなど便利が良かったからでしょう。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC
  • syunpei
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回答No.8

参考URL:
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/history_02.htm
  • syunpei
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回答No.7

今では、大量に発掘され、その富本銭の貨幣的意味合いがゆるぎないところですが、 日本銀行の貨幣博物館にこんな記事があります。 かなり古くからその存在はしられていたようですし、実物も現存していたようですね 富本銭は、江戸時代には、古代の銭ではなく、絵銭・厭勝銭として考えられていました。銭譜に登場する富本銭のなかには、左右の七星が六星になっているものや、富本の『夲(とう)』の字が『本(ほん)』になっているものもあります 細かい点は御覧になってから

参考URL:
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/komonjo_senpu.htm
  • syunpei
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回答No.6

●どうして真ん中に四角い穴が空いているのか。 造幣局のホームページに 現在では、金属板を円形に型ぬきし、その後模様をプレスしていますが、例えば皇朝十二銭等の古代の貨幣は土で鋳型を造り、それに溶けた銅を流し込み、銅が冷えて固まったら型からはずします。すると木の枝に葉っぱがついたような「枝銭」と呼ばれる形が出来あがります。この葉っぱのような貨幣を一枚ずつ切り離し、周りを磨いて仕上げていました。とあります。 また、日本銀行のホームページで 現行貨幣のアナの説明では 4.五円玉や五十円玉にはなぜ穴があいているのですか?  一番大きな理由としては、他の額面の貨幣と識別を容易にするためだと言えます。 明治4年に「円、銭、厘」という現代の貨幣制度になってから、初めて穴あき貨幣が登場したのは、五銭白銅貨が発行された大正6年のことですが、このときは誤用を避けるといった理由のほかに、偽造防止、素材金属の節約などの意味がありました。しかし、その後は、材料の価格以上に穴をあけるコストがかかるようになったため、節約の意味は失われるようになりました。 多くの硬貨を用いる時、ひもを通してつかうため、四角い穴があけられたようです。 なぜ、四角いかは、アナに、四角い棒を通し、大量に貨幣のバリとりをして、形を整え、磨くために、丸よりは、四角であるという、説があります。 ↓貨幣Q&Aがあります。いろんな、古代の貨幣が見られます

参考URL:
http://www.ufo.co.jp/hosenka/qa.html
  • syunpei
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回答No.5

補足です。 日本銀行金融研究所貨幣博物館 「わが国の貨幣史 」 http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/history_02.htm http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/history.htm 「最古の貨幣33枚」 飛鳥時代の総合工房跡である明日香村の飛鳥池遺跡で、7世紀後半の銅銭が33枚出土し、奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部が19日発表した。日本書紀の天武12(683)年に「今より以後、必ず銅銭を用いよ」との記述があることから、同調査部は出土した銅銭がこれに当たり、和銅元(708)年に初鋳された和同開珎(わどうかいちん)に先立つ最古の貨幣とみている。 http://www.nara-shimbun.com/spe/p_hn1828.html 「富本銭**天武期に貨幣流通か?」 http://www.nara-shimbun.com/spe/p_huhon.html 「古和同」と成分類似 明日香村の飛鳥池遺跡で出土した日本最古の貨幣とみられる富本銭の成分中、アンチモンの含有率が、最初期の和同開珎とされる「古和同」の1部とよく似ていることが、奈良国立文化財研究所の25日までの分析で明らかになった。 http://www.nara-shimbun.com/spe/p_hn1855.html

  • syunpei
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回答No.4

●これが日本で最初のお金と考えて良いのかどうか。 残念ながら、いえそうにありませんね、富本銭が、多量に 藤原京から出土し、以前、他県でも出土していて、日本銀行では、ホームページの書き換えをするといっていました (資料館含め) これは、藤原京を作るための資金として作られたようです ただ、当時は一般的になかなか普及しなかったようですが ●どうして真ん中に四角い穴が空いているのか これは、中国のお金をモデルにしているためです。 ●和同開珎が作られたことによって、当時の社会にどのような影響があったのか。 基本的に都作りにこの和同開珎も作られ、このとき蓄銭叙位令なるものが、発令され、蓄えた銭によって、官位がかえるといった、ことになったのです。このとき銀銭もつくられましたが、これは、貿易のために使われたと,いわれています。中国で見つかっています。

  • haijin22
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回答No.3

日本が独自に貨幣を発行したのはこの皇朝十二銭の時代の次はいつだとお思いでしょうか。1000年近くのちの徳川期には入ってからです。それまでは宋銭、明銭など中国貨幣を使っていました。織田信長の永楽銭の幟に象徴されるように、永楽銭は室町・戦国期の主要貨幣だったのです。家康が日本の銭4貫文=永楽銭1貫文というレートを残しつつ、ようやく中国銭の使用が禁止されるようになりました。それでも、明治に至るまで「永(永楽銭のレートで)何銭」という表現が公文書で使用されていました。 このことが意味する問題はとても述べられませんが、現在世界一の紙幣印刷技術を持つ日本が、実は独自通貨を持てなかった時代が結構あったことは知っておいて損はないと思います。 また、「畜銭」といってよく壷いっぱいに銭が収められている発掘例がありますが、1よく流通していることの証拠だと主張する立場と2埋められているから実用的な意味はなく呪術的・宗教的意味があったとする二つの解釈があります。 なお以下に東大史料編纂所のURLを記載しておきます。 「近世」に馬場さんという貨幣・計量史専攻の方の個人ページに色々リンク集や有益な情報が収められているのでお訪ねしてみてください。

参考URL:
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
  • nonkun
  • ベストアンサー率27% (98/357)
回答No.2

最初の質問は少し前にもっと古い貨幣が見つかったような報道がありましたが、最近の動向を見るに、真偽の程はハッキリしないですね。 二番目の質問ですが、貨幣は鋳型にて鋳造しますがその後に切り離すときに出来た外側の出っ張り(プラモデルでいうところのパテ?)を削るのですが、これを行うときに四角い棒に貨幣を通してまとめて処理するためだそうです。丸い穴では貨幣が滑るからです。 あと、最後の質問ですが、自国の通貨ができるということは大変な進歩です。今までは借り物の通貨なので副次的に使用されるだけでしたから。まだまだ物々交換が主流だった時代なのです。これでお金の概念がかなりハッキリしたものと思われます。 しかし、初期の頃はかなり粗悪な貨幣も出回っていたために、それを鐚銭(びたせん)といって良銭に比べて極めて不利な交換レートが存在していたと言われています。 確かひどい場合には良銭1枚に対して鐚銭50枚ぐらいの場合もあったそうです。

noname#24736
noname#24736
回答No.1

まず、おっしゃる通り日本最初の硬貨です。 皇朝十二銭の第一。「珎」を珍(チン)の異体文字とする説と、「寳(寶の俗字) 」の略体文字として「ほう」と読む説とがある。七〇八年(和銅一)武蔵国から 和銅を献上したので政府は年号を和銅と改め、五月に銀銭、八月に銅銭を鋳造し た。銀銭は翌年廃止。銅銭は全国に広く流通し、京都・山口などに鋳造銭司遺跡 があると参考書籍(電子ブック版 大辞林 三省堂)に書かれていました。 また、モデルとなったのは、唐の「改元通宝」(621年)で、この改元通宝は中国および日本のその後の貨幣の規範となったばかりでなく、度量衡の基礎ともなりました。 他の項目については残念ながら調べられませんでした。

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