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全ては意識の中の存在

 こんばんは。  哲学を学ばれた方に質問です。  私は素人なので、優しく教えて頂けたら助かります。  「全ての存在は自我と別個に存在するものではなく、自我の意識の中の存在でしかない可能性もある」と言うのは本当ですか?  宜しくお願いします。

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  • toyasan
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回答No.3

よく教科書に載っているような説明であれば、デカルトの有名な句『ゴギト・エルゴ・スム(我、思う故に我あり)』によって発展した認識論の流れにたつ議論でよく出てきます。 つまり、デカルトは「考える自分(=自我)」という存在は疑えない、という第一原理から出発して自分の思索を展開します。 ちょっと考えてみてください。つまり、自分以外の存在者はもしかしたら幻想かもしれない、って疑うことはできませんか?デカルトはそう疑ったんです。でも疑えないものが、自分、というものだったんですね。 その意味で、これを突き詰めていくと、(永井均さんの言うような)『認識論的独我論』(つまり、世界を認識するのは自分だけで、自分がいなくなれば、世界を認識する者はいなくなる、自分がいなければ世界の物が存在するということもなくなる、という論)になります。 自分に置き換えて考えてみてください。 自分が居なくなったら・・・と、死後にも世界を確かめれるような不死の魂とかを考慮に入れず、まったく存在しなくなったら、それでも「ここにリンゴがある」と言えるでしょうか?もしかしたら、地球の裏側で起こっている出来事は全部存在していないかもしれない。・・・そういう風に考えていったら、なんとなく「全ての存在は自我と別個に存在するものではなく、自我の意識の中の存在でしかない可能性もある」という主張がなぜなされるのか、理解していただけるのではないかな、と思います。 極端なところでは、ヒュームやバークリといった哲学者の著作を読むと、考えさせられますよ(^-^) 哲学科の博士課程修了者の一言でした。

noname#10222
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。  うーむ 考えさせられますね。  

noname#10222
質問者

補足

 質問の補足 (ご回答をして頂ける皆様へ)  この説を否定する説はあるのでしょうか? あるとしたら、それはどのような論理を用いて否定しているのでしょうか?  宜しくお願い致します。

その他の回答 (12)

  • kigurumi
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回答No.13

No5もリターンです。 >しかし、何も写ってないよ、という人がいたら聞き捨てならないことですよね。 >そこまで行かなくても若い女性が写っているのに年取った男性が写っていると言うこともないでしょう。 >もし本当にそういうことになれば、ちょっとした騒ぎになろうことは想像に難くありません。 はいはいはいはい(^o^)ノ (学校の教室じゃないんだから って思われたかしら? ^^;) 私の記憶にある印象的な事件はマリア様降臨事件。 テレビで報道されました。 わたしもテレビのニュースを見ていたわけですが。 何万人もの人がマリア様を一目見ようと集まりました。 テレビの車も沢山そこに集まりました。 人々はある方角を見つめ涙して祈りを捧げてました。 テレビカメラもズームイン! ・・・・何も映っていません。 カメラには映らないものなのか? では肉眼でのみ見えるのか? 取材班からのリポート「見えませんね~。。。。。見えません」 そこで近くにいる涙を流している人に聞きました。 取材班「あなたにはマリア様が見えているのですか」 その人「ええ もちろんですとも おお なんと・・・」 取材班「どんな服装をしていますか? 顔はどんな感じですか?」 その人「なんという感激 ああ 幸せです」 取材班「もしもし・・・」 一面を埋め尽くすキリスト教信者たちに圧倒され、またみんなが見えるのに取材班たちには見えない、カメラにも映らないという現象は何なのかと取材班は戸惑った。 私が見るテレビの映像にはやはり白い空とそのあたりの風景しか映ってなかった。 私思った。 「信じるものは救われる」「信じるものには当然見える」 それは外見だとかじゃなく 存在そのもを『ある』と認識することだ。 たったそれだけで別の世界に住むことになる。 ではどうすれば信じることができるようになるのか? 自分にとって価値があると思えば信じ、見えるようになる(存在する)と思う。 幽霊にしたってそう。 UFOに拉致され人体実験されたって訴える人もそう。 彼らにとって幽霊も宇宙人も彼らの人生において必要不可欠なのだ。 必要なくなったとき彼らの世界から消滅するのだ。 (って思うのね) 次もまたテレビで見たこと。 なんとか商法にひっかかる人が後を絶たず、テレビの企画でその内部に潜入することにした。 侵入してレポートするのは女性スタッフ。 隠しカメラをバッグにしのばせ、イヤホンをつけて会場に潜入することになった。 通りでストッキングを無料で配っているが、あれが詐欺師のカモを釣る手法。 その前を通ると「無料でストッキング配ってます。それから今ならとってもお得なことやってます。よかったらどうぞ」と言われ近くのビルの一室に連れていかれる。 会場内は女性ばかり集まっていた。(これはなんとなく理由がわかる。男だと成功率低くなるから。女性特有の脳の機能を逆に利用してハメる手法だと思う) 詐欺師は何かを出して「これ普通1万するんですが。今なら100円 欲しい人?」 会場はどよめき「はい」「はい」「はい」と手があがる。 一人だけ商品を100円でゲットして買えなかった人は悔しそうにそれを見る。 「次 この商品は2万ですが、今なら200円でプレゼント」 「はいはいはいはい」前より手があがる。 そうやっていくうちレポーターまで手をあげている。 一緒に潜入して隠しカメラでそのレポーターの顔を取ると顔が真剣。 会場を写すと会場内の女性達の目がいっている。 やがて詐欺師は布団を出す。「今ならたったの50万!」詐欺師は声をはりあげる。 「はいはいはいはい」会場のみんな手を上げ、もちろんレポーターを手をあげて、しっかりカード使って支払い契約すませている。 外で合流するとしっかり手に布団持っている。 「どうしたんですか」とスタッフが聞くと「買っちゃいました えへ」と満足そうな笑顔。 「でも あなたは詐欺のレポートをするため潜入したんですよね」 「ええ でもこの布団すっごーーくいいでしょ お買い得!」 鑑定結果、その布団は高く見積もっても5万。 「でもね。。。本当に買いたいって思ったの。他人に負けたくなかったのよ」とレポーターは弁明した。 「ははーーーん。」とわたしはテレビを見ながら思った。 またまた詐欺師の話し。 これはみんな知っているお話。 裸の王様。 この詐欺にひっかかった原因は「馬鹿な人には服が見えない」と言われたから。 子どもが言ったことで洗脳が解けて、きらびやかな服が消滅してパンツ一丁の王様という実体が見えた。 もう一つ これは匂いの話し。 匂いに関するアンケートをとっていて、風船の中の匂いをかがせるものだったかな? 忘れた。 やがてシューシューという音を出す。 すると一人が「臭い ガスの匂いがする」と言い出す。 「ほんとだ きな臭い ガスよ」と他の人たちも言い出す。 気分が悪くなったと言い出す人もいた。 取材判はおもむろに机の下に隠してあったテープレコーダーを取り出す。 実は音の正体はこれでした。 再生ボタンを押すとシューシュー音が聞こえる。 「いえ 確かにガスの匂いがした。だってこんなに気分悪いんだもの」と種証をしても尚ガスの匂いを実体験したと言ってひかない人もいた。 4つ上げましたが、こんな事でも別の世界を現実と思うことってあるんじゃないでしょうか ヾ(^。^*) ただし他人の感じるものと比較して自分の認識を変化させていく。 「あの布団すっごい価値ある~」って感覚に変化させることができる。 ただし思い込みが激しい=他人の価値に影響を受けない って場合もあるでしょう。 トロイの木馬のように信じた結果発掘することにもなったし。 逆に自分で検証して結果を確認したら信じるって人もいるでしょう。 アインシュタインがブラックホールは存在すると言ったことを真っ向から否定するため反証した科学者が、皆既日食で観測したら、「あらら 光曲がった」ってなって「やっぱりあそこら変にブラックホールがあるとしか思えない(他のどんな理由も思い当たらない)」ってなったし、それで又新しい概念?が生まれたし。 光は場合によっては曲がる。 曲がるということは歪むわけで、歪んだ世界を我々は歪んでいると認識できなければ、それが真実の世界だと思うわけで。 五感だってそういうことじゃないかしら。

noname#10222
質問者

お礼

 お世話になっております。  ご回答ありがとうございます。  とてもお詳しいのですね。  

noname#10222
質問者

補足

 ★ご回答を頂ける皆様方へ★  ご回答を頂いている皆様方、頂いたご回答、当サイト、インターネット、パソコン・・・ 友人、親戚、兄弟、親、自分の肉体(感覚器官含む)・・・等の存在も含め、全ての事物は私の自我の中の存在である可能性の有無について伺えたら助かります。

回答No.12

リターン@お邪魔虫です。 「全ての存在は自我と別個に存在するものではなく自我の意識のなかの存在でしかない」 という論は、このカテのなかで時おり目にしますが、そのたび反射的に私はムッとしてしまうんです。 何でムッとしてしまうんだろうか?と自問してみて、これが引っかかりの原因かなと思ったのですが、私は難聴者です。全体に聞き取りにくいのですが、だいたいは聞き取っているつもりです。が、聞き間違いというのは私に限らず誰しもあることでしょうが、ある種類の音については全く聞こえないということがあります。健聴者でも何かに没頭していて気づかないということはあるでしょうが私の場合、注意して聞き取ろうとしても音そのものが捉えられないことがあるのです。ですから私一人でいるときには、その音は鳴っていないのと同じことです。最初から何の音も鳴っていないと言い張ることもできる。ところが、ここに人が現れて「鳴ってますよ」と言う。ここで私が「鳴ってない」と言うと言い争いになるでしょう。争いを避けるには、どちらかが折れなければならない。でなければ、お互いに「こいつ、頭ヘン?」と思って無視するか。で、私は難聴者であるということが分かっておりますから「私が聞き取れなかったのです」と引き下がれば丸く収まりますよね。 しかし昔これに似た状況になったことがありました。難聴であることを知っていて、からかわれたりするというようなことが幼い頃からありましたから、その当時の私は、いささか疑り深くなっていて「本当は、そんな音などしていないのに鳴っていると言って私を愚弄しているのじゃないか」と思い口論めいた事態になってしまったのです。そして他の人たちがやってきました。 「ねえ、鳴ってるよね?この人、鳴ってるの分からないんだって。」 「うん、鳴ってるよ。ほら、チリチリチリって・・・」 「うんうん、鳴ってる鳴ってる。ピリピリピリ・・・って」 「え、キリキリキリでしょ」 「いや、ピキピキピキだよ」 「違う!キピキピキピだよ、耳おかしいんじゃね~の?」ガヤガヤ・・・。 つまり対象の存在というのは自我意識のなかで完結してしまうという論に対して私が思わずムッとしてしまうのは、私にとっては存在しない音が周囲の全員によって存在していることにされてしまった、ということに対する不快感を刺激されるのかもしれません。そして、あらゆる現象は仏教等で言われるところのマーヤー、惑わしなのである、或いは人の意識によって如何様にも変化するのだからして実在なんぞしておらんのだ、という論理は「チリチリ」「ピリピリ」「キリキリ」「キピキピ」の違いごときでもって結論を急いでいるようにも思えるのです。個人の自我意識のなかだけで解決済みにできるのか?と。 もちろん、こうした考え方は現実に即しているとも言えましょうし一面の真理でもあるのでしょう。しかし、どこまで行っても一面の、ではないでしょうか? 写真というものは事実を写し取ります。しかし、それはまた加工可能な「一面の」事実です。写された女性を見て 「お、ごっつ美人。タイプタイプ~」 と言う人もいれば 「なんや大したことはないな」 と思う人もいるでしょう。 しかし、何も写ってないよ、という人がいたら聞き捨てならないことですよね。そこまで行かなくても若い女性が写っているのに年取った男性が写っていると言うこともないでしょう。もし本当にそういうことになれば、ちょっとした騒ぎになろうことは想像に難くありません。個人の自我意識で済ませようとする人は、この辺を、どう説明してくださるのか私も聞きたいです。 ただ、個人を超えた、人類または生物全体に及ぶほどのレベルでの意識ということを問うならば、これは非常に興味深いところだと思います。 個人的には猫の集団など観察していて個を超えた意識というものの存在を感じたことがあります。どう名づけるべきかも分からないのですが・・・。彼らは、どうやら個の意識と個を超えた意識とのあいだを自在に行き来している。ところがヒトという者は、このあたりの能力が著しく退化している。それはおそらく何かと引き換えに。 御質問の文中において『「~可能性もある」というのは本当ですか?』と仰ることに簡潔にお答えすれば、その通り、可能性はありましょう。№1のかたの御回答にもあるように「可能性」です。 個人の自我意識を重く見るならば、そもそも我々一人ひとりの自他の区別感覚の正体を解き明かさねばならない。なぜ私は貴方ではないのでしょう。貴方は、いま御使用なさっているその肉体を御自分で選ばれたのでしょうか?私の苦しみを貴方は御自分の苦しみとお感じになりますか? 自我の意識のなかの存在でしかない、と結論付けることができたとして、なぜ、そうなっているのでしょう?

noname#10222
質問者

お礼

 度々アドバイスを頂きまして、誠にありがとうございました。  不愉快な質問をしてしまい、申し訳ございませんでした。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.11

No.5です。 この現象を疾病ゆえに別の世界が見えるのかと考えるのか、刺激される部分で人間は別な世界を脳の中で創り上げ、それを現実とするのか なんですが、わたしは刺激次第だって思えるのです。 今は脳に穴あけて刺激を加えなくても、磁器で刺激を加えて、脳内マップを調べる方法があるようです。 例えば冷たいという感覚の部分を刺激したら、まるで凍りに触っているかのような感触を持ったりするそうです。 脳のある部分を刺激すると、あらゆるものに宇宙的な意味を感じ取るようになるそうです。 普通はその部分あまり刺激するような生活はしていないので、そんなに発達しないかもしれませんが、そういう小説とか小さい頃から読んでいれば、その部分に頻繁にアクセスして「これは宇宙からの啓示だ」とすぐそう認識するようになるかもしれない。 果たしてそれが本当に宇宙の啓示なのかどうかは誰もわからないが、本人がそうだと思うのであれば、そういう世界なんだと思います。 (脳がそういう世界を作り上げていて我々に感じ取らせている) よく取り上げられるのが色についてですが、実際物には色は無いのだそうです。 でも私たちは赤だとか緑だとか区別して物体を捉えています。 色盲の人には見えない世界もあるし、人間では識別できない色の波長もあります。 ラスベガスだったと思いますが、不思議な体験をしました。 3Dのメガネをかけると、ステージにいる人が突然目の前までワープしてくるんです。 「うわ!」ってのけぞり 一体何が起こったんだってびっくりです。 混乱しながらステージを見ていると、舞台を進行していた3人が忽然と一瞬にして消えたのです。 目の前で。 え? マジっすか? 今まで舞台でジョーク飛ばしていた彼らは現実じゃない? え? え? です。 人が光の速度で移動したとは思えない。 じゃあ 実在すると思っていたのは3Dメガネによるものだったのか?(これ今もって謎です) 目の前に飛び出してきたのは3Dのせいかなって思いますが、突如消えたのはどうしても理解できない。 3Dメガネによって視覚からの情報を操作されたんだとは思います。 頼りない目・・・。 しかも現実と映像の区別ができない目・・・。 音だってそうです。 人間が捕らえることできる周波数はとても狭いです。 犬は人間では捕らえることのできない周波数も感知します。 犬が妙にワオワオ騒ぐことがありますが、我々は何も変化はないのにと不思議に思います。 匂いだって犬は我々が感知しないものを感知して「ある」と教えてくれます。 犬や昆虫の見えている世界と、我々が見えている世界は違うと思います。 機械を使えば昆虫が見える世界を見ることができるらしいです。 他には、、、 例えば心が落ち込んでいると、世界がどんよりと感じます。 そこに突然報奨金が今度支払われることになったという情報が入った場合、ばら色の世界になります。 じゃあ、前の世界と後の世界は違うのかというと、一緒なはずです。 心 つまり 脳のふりまいによって 我々はいろいろな世界を見せられるのではないかと思います。 例えば人工的にその人の感覚を変化させることができます。 催眠術を使えばその人に別の世界を感じ取らせることができます。 それを生かして催眠療法とかありますが、危険な療法でもあると思います。 なぜならどれが真実なのかわからないから。 術者の言う世界が真実なのか、術をかけられる前が真実の世界なのか。 難しいですよね。 真実ってなんなんでしょう。 我々は真実を感知する能力があるのでしょうか。 人間は五感で真実を知ることができるのでしょうか? 心で(脳)真実を見ることができるのでしょうか。

noname#10222
質問者

お礼

 度々お世話になります。  色々と教えて頂きまして、ありがとうございました。  体験談もありがとうございました。  

noname#15238
noname#15238
回答No.10

失礼します、過日、ユーモアのつもりが、全く外してしまい、質問者様に、不要な一文を質問文に入れさせてしまったようです、反省を込めて、優しく回答してみます。 実は、一度回答に失敗しました、リンクを貼る際に、回答中のページに戻れなくなりました、従いまして、要点だけを簡潔に説明してみます。 存在とか意識に関する、難しいことは、ひとまず判断中止。 存在が意識の中有るとすれば、意識によって存在を認識する感官(視覚・聴覚など)が影響を受けることを示せば、ひとまず可能性に付いては証明できるのでは。 ここでは、説明しやすい視覚を取り上げて、説明します。 下記のURLで、一番下の「だまし絵」に入ってください。 つぎに、「隠れた動物たち」「婦人と老婆」を見てください。 最初いなかった犬が、表れました、一度見えた犬は、いなくなりません、何が変わったのでしょう。 目の前にあるのは同じ絵です、変わったのは意識でしょうね。 老婆と婦人はジッと見ていると、入れ替わります。 意識が変わるたびに、老婆が婦人に変わります、この問題は、興味深いことですが、意識が視覚に影響を与えることは納得いただけたでしょうか? この二つは、意識が視覚に与える二つの違った作用です。 つまり、意識は視覚に対して、一定ではない影響を与えます。 同じ人格であり、同一の視覚で認識していることが、意識によって変わります、他者または他の生命と比較すればもっと大きな違いが有るはずですが、他の方のご回答にも参考になるかと思います。 もちろんその時、その違いは、「対象」 にはありません。 意識の中に有ると言っても妥当だと、申し上げて置きましょう。 回答を一度失敗した為、極端に説明を省き要点だけに絞りました。 ひとまず、優しさだけでも伝われば幸いです。

参考URL:
http://www.brl.ntt.co.jp/IllusionForum/basics/visual/
noname#10222
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。  「優しく」について  お心遣いありがとうございます。しかし、これは私の入力ミスです。 ×優しく ○易しく  余計な気を使わせてしまい、申し訳ありませんでした アセアセ・・・

noname#10222
質問者

補足

 ご回答を頂ける皆様へ  訂正です。 ×優しく教えて頂けたら助かります。 ○易しく教えて頂けたら助かります。  おバカな私をお許し下さい 涙

回答No.9

ユダヤ教の言う原罪は 自我に目覚め 知識を獲得していく過程だろう. 自我を滅却する方法があれば 人は皆,神とは何かを知るだろう.       

noname#10222
質問者

お礼

 度々ありがとうございます。

回答No.8

量子力学の理論の確立のために 科学が東洋哲学を学び始め 無我,無欲といった有り方を知っていくとしたら それこそそれは神のなせる業かもしれない. 世界の調和共存の為の布石として.

noname#10222
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。

回答No.7

自我の意識によって認識されなければ 存在しないのと同じだから. 有っても 無くても. もともとは全ての存在は個別に存在するものではなかったが, 自我の発達で全ての存在から切り離されたともいえる. 自我に固執すれば知らないままで 死んでいく. 仏教ではその自我の思考を止観する. もしくは老子の声なき声を聴く,形なき形を観る といったアプローチによって 全存在を観ようとする. その存在を感じたものが それを梵といったりイデアといったり大日如来と表現した. と言った所だろうか. そして自我がとても量子的なのだ.

noname#10222
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。  仏教の問題でもあるのですか。

  • frau
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回答No.6

ひよっ子ですが、心理学徒です。心理学からの見解もさせてください。 深層心理学では現実に見ている世界を「心的現実(サイコリアリティ)」または「対象表彰」といいます。この見方を「心」をとおして「物的現実(マテリアルリアリティ)」をみます。 たとえばあなたが「黒い猫」を見るとき、これは身体の感覚・知覚を通して見ています。つまり世界は自分の心の投影である、という意識のことです。哲学的にはその猫は猫だと本当に感じているのか?そうだと知覚しているに過ぎないと考えます(実存主義、方法的懐疑)。 心理学的にそれを確かめたいのであれば紙とペンを用意し「人は○○である」「私は○○です」と、なんでもよいですから主語と述語を組み合わせ、心に思うままに書いていけば自分が「対象」(世界)をどう思っているのか、感じているのか、がわかります。それが「自己表象」という意識です。(この方法は認知療法に使われています) また「対象表象」が変ると「自己表象」も変ります。例えば悪いことをするとき、誰も見ていないはずなのに絶えず見られているような気がする、というのも、「対象表象」への認識によります。 しかし表象の世界に生きれば生きるほど病気になるんだそうです。例えば統合失調症の方の見る妄想などがそうです。例えばこの病の妄想の特徴なのですが、「自分はある国のスパイに見張られている」「警察に盗聴されている」などの妄想は、自分の中にそうした「鬱」を持ちこたえられず、外部に投影することによります。 というのは、統合失調症の方の見るその「夢」は、必ずしも「病人」の特徴ではなく、健康な人の精神が覚醒した状態で体現し続けている「心的現実」そのものだと思います。なので精神病者への偏見や差別は無知ゆえの、いやそれ以前に想像力のなさ、あるいは見た目だけで判断する短略的思考からくるものではないかと思ってます。 ご質問のことは哲学用語だと思いますが、フロイト、ユングの深層心理に対応できるかと思いました。 さて、フロイトは心を●「意識」●「前意識」●「無意識」に分けました。 ●「意識」というのは日常生活の中で意識できること、覚醒状態、理性などのことです。 ●「前意識」というのは、思い出そうとすれば思い出せること、例えば今は特に意識してないが、3日前の出来事は思い出そうとすれば思いだせるようなこと。 ●「無意識」というのはちょっと頑張っても思い出せないようなことだけれど、過去におきた出来事や、思考や感情など、一切合財収納できる「ブラックホールのようなもの」(と個人的には呼んでいる)です。 ここは睡眠時に見る「夢」という形で反映されます。「夢」の世界は忘れ去ったはずの過去の自分や現在の自分、本心やコンプレックス、とにかく自分と世界、あらゆるもののごった煮の世界です。でも「夢」は直接に「自分」を語ってくれません。あまりにも混沌としていますよね。その幻想的で支離滅裂で、可能性に溢れ、時に苦しく甘い…。まるでシャガールの絵のように簡単には読み取れない世界であるのは、自我を守ってくれているからです。例えばすごいトラウマがある。または人に言えない秘密がある。コンプレックスをたくさん持っている。しかしもし「夢」が直接その場面を見せたり、見たくないことを教えるとなると自我は脅かされます。「夢」はその支離滅裂なイメージを見せることによって自我を守っているわけです。これをフロイトは「夢の検問」と名付けました。分析家フロイトはここから患者のそのイメージに隠された本心や病理の原因となるものを見つけていった、「心の探偵」のような人です。…スイマセン、話が脱線し始めました。 ユングは「意識」そして「無意識」をさらに「個人的無意識」と「普遍的無意識」に分けました。「個人的無意識」はフロイトの「前意識」に対応するものです。「普遍的無意識」は「表象可能性の遺産として、個人的にではなく、人類に、むしろ動物にさえ普遍的なもので、個人の心の真の基礎である」というこれはユング自身の言葉です(ちなみに初対面で14時間も話し合いそこから親友同士になったフロイトとユングは無意識への扱い方の意見の相違により決別していきます)。 で、また大先生方のお話に戻りますが(笑)、フロイトは「自我」(エゴ)を意識中心と考えたのですが、ユングはさらにそれを拡大して「自己(セルフ)は意識と無意識を含んだ心の全体性」と捉えたのでした。まあ無意識のようなものでしょうか。 以上は有名な概念なのですでにご存知かと思います。 ご質問に立ち返りますと ●「>全ての存在は自我と別個に存在するものではなく」 とは「普遍的無意識」のことであり、 ●「>自我の意識の中の存在」 というのは「心的現実」のことであり、 ●「可能性もある」 というのは、可能性ではなく、現実だと思います。 つまり…「世界に広げよう、友達の輪!」ですね(もうお昼のテレビで見られないけれど(笑))。というか、リンクする、というか、すでにリンクされている。社会はメーリングリストのようなものではないかと思います。 そういえば悩み相談での励まし言葉に「あなたが変れば(相手)も変る」という言葉が用いられますよね。それこそその対象表象を示していると思いました。「自分の見方で世界が変る」というのをもう少し自己中心的に解釈してここは対象が変ってくれる可能性がある、と希望をかけています。つまり究極的な悩み相談の回答なんですよね。これが最も難しいことですけれど。でも自分が変る(見方を変える)といっても即効、自分のダンナがヨン様に変るわけではないでしょうけれど(^^; しかしこうした概念というか意識というものはある意味現実逃避に使えますよね。自分が見たものは本当のことではないなどと。ま、現実逃避したくなるような世の中ですからね(笑)。

noname#10222
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。  心理学の問題でもあるのですね。  色々と教えて頂いて、ありがとうございました。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.5

脳のなかの幽霊にはまってます。 <半側無視> 右半分だけ口紅べっとりのおかんを見た息子は驚いちゃいました。 これは左側に注意がいかないので、右側だけ塗っちゃったわけです。 絵を見ても左側を注目するように言わないと、左側の部分を写生しない。 つまり無視したことで、存在しないことになります。 <疾病失認> 左側が麻痺した人の中には左側が麻痺して動かないという認識がないので、手拍子してって言うと本人は手拍子していると思っている。 でも観察者からみると左手は動いていない。 その人の耳に水を入れるとしばらく大泣きします。 「左手が動かない」 いつから動かないのか聞くと、脳卒中で倒れた2週間前からだとちゃんと答えます。 ところが2時間後にもう一度聞くと「はい 左手もちゃんと動きますよ。前からずっと動いてます。何も問題ありませんよ」と言う。 つまりこの人のどこかにはちゃんと病気によって左手が動かなくなったときからの記憶はあるが、通常は何かがあってその記憶にアクセスできないので、「前となんらかわりないですが なにか?」って真面目に答えるらしいです。 <シャルルボネシンドローム> 幽霊が見えるというものです。 正確には幻覚が見えて、マンガの主人公が現実に出てきていろいろやるパターンもあるそうです。 私たちが現実に見るのと同じように見えるそうです。 <カプグラの妄想> 自分の母親を母親にうりふたつなニセモノだと信じているんだそうです。 これは人間の親近感というかそういう感覚が断絶されたことにより、見た目は母親だと思うが、心がニセモノだと判断するらしいです。 心 つまり脳の認識次第で無いものがあると思ったり、あるものが無いとなったり。 看護士が「先生 もうお昼ですから休憩に入りましょう」と声をかけると、先生は「そうだな そろそろ休憩にしよう」と言って病室に戻っていく人もいるそうです。 その人の世界ではその人は医者で、その人以外の人の世界ではその人は患者です。 どっちの世界が正しいのか?? どっちの世界も存在するのかもしれません。

参考URL:
http://216.239.57.104/search?q=cache:IN7svexcEwEJ:homepage2.nifty.com/kazenotsubasa/aka-2.htm+%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%A
noname#10222
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。  色んな話があるのですね。  URLもありがとうございました。

回答No.4

大学とかで哲学修めたというわけではありませんのでコソコソしながら・・・ 『我思う、故に我あり』か『我思う、我あり』か存じませんが なんで、「この我」が「我」なのかというほうが、よっぽど不思議。 個人の自我って、そんなに大きなカギなの? だったら集団での何かなんて一切あり得ないわけじゃありませんか?? おっと退散退散・・・

noname#10222
質問者

お礼

 アドバイスありがとうございます。