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自我 2

自我 2 お世話になります。 前回「自我」について質問させて頂きました。 結論からいうと自我というものは存在するが、 客観的な判断のもとに自分というものを捉えないと 社会との摩擦を起こしてしまうとの回答を頂きました。 では自分の求める自我「理想」と 社会側から捉えられた私「現実」は どちらが本当の私ですか。 伝わりにくかったらすみません。

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noname#118718
noname#118718
回答No.1

以下で少し説明が足りなかったようです。ごめんね。 http://okwave.jp/qa/q5987547.html >自分の求める自我「理想」と社会側から捉えられた私「現実」はどちらが本当の私ですか。 自我は存在するのですが、その中身の自我像というのは換えていくことができます。 つまり、「本当の自我」というものはあまり気にされない方がいいと思います。 社会側から捉えられた私「現実」も社会で活躍していく為には「なりたい自分」よりも「社会から観た自分」もしくは「実能力にふさわしい社会的ポジション」を基準にした方がよりよいということに過ぎません。 反対に、家で独りでくつろぎたいときは「社会から観た自分」像よりも「なりたい自分」像を優先した方がリラックスできるかしれません。 自我像を固定的にしてしまうと環境の変化についていけず環境との調和が乱されます。 詳しくはカール・ロジャーズのロジャーズ選集下第8部にあるので興味があれば読んでみてください。

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  • magga
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回答No.3

まず、実体としての「自我」・「変わらない私」というものは成り立たないものと思います。 前回の回答を見ても、最初あると言い切っていますが、 『「ない」とするのではなく「そういった心的機能は停止できる」』 というような表現からみるに、ここで説かれているのは 心的機能として変化生滅するものとしの自我であるとおもいます。 (勝手な憶測ですが・・・) 自我自体は我々が錯覚して思い込んでいるものであると僕は考えてます。 感覚も心の機能も一つ一つみても変化生滅しない性質のものはみつかりません。 どれもこれこそ変わらない実体としての「私」だ「自我」だといえるものはみつかりません。 存在する有るものではなく、一定期間区切った変化生滅の流れに 「私」という「自我意識」を錯覚するだけだと・・・。 そもそも「変わらない何か」とは関われませんからね。 関わった瞬間変わらない何かではなくなってしまうでしょうし。 その「エゴ・自我」という錯覚によって、諸々の煩悩が生まれ、悩み苦しみが生まれると思っています。 自己の「エゴ」が強ければ強いほどに他者との軋轢が増しますね。 逆に「エゴ」が少なければ少ないほどに軋轢はなくなると思います。 その軋轢は「自己内の希望」と、「現実」の軋轢によって生まれる感情にもいえると思います。 生命・人間として幸福に生きるには その両者の軋轢を減らすことなくすことにチャレンジする必要があると思います。 何かしら参考になれば幸いです ~生きとし生けるものが幸せでありますように~

回答No.2

「自覚された自己」と「社会的な自己」が分裂しているのなら、自己存在の本質に根差した自覚によって生きていない=他律的に生かされている、という事です。 今や個人の生存は、衣食住どれも世界中の人々の営為によっており、本来「利己」は「利他」を包含します(そこに求められるのは、他我(=自己の延長として他を認識する=愛)です)。 宇宙(認識)とは、無の潜在としての認識可能性の“断面”の移動=自我仮説に対する、相補的な時空仮説として生じています。 そこにおいて、宇宙の膨張=不確定性(h)の収束という、異なる本質=異なる認識可能性を一つの軸(時系列化)にするところに時間性は依拠しており、過去の自分も、空間的広がりにおける他人も同じです。 宇宙は、別の認識可能性を自己同一視するという、ある種の精神異常として発生し、実は他人も共通であるという愛に向かって進むと言えます。 宇宙が認識に於いて生じるならば、生きるのは楽しむためです。 その「楽しみ」の原因をつくる欲求は、遺伝子によって発生し、また我々の生きた結果が、淘汰として遺伝子に刻まれていきます。 もし、楽しくなくてイヤイヤ生きるならば、その個体は活性が落ちて淘汰され、その状況でもイヤじゃない個体が増殖するだけです。 それは短絡的な快楽主義を意味するのではなく、生きるのに反したり、認識を低下させる欲求は、人生を通算した充足量の総和の最大化に反します。 人の「生き方」には、認識性の発達(より深い認識的な目標の達成による充実感)や社会生命性の発達(社会的行動=助け合いによる喜びor社会的価値(お金や出世)の取得による喜び)といった、二次的な要因があり、人生を通算した“喜びの最大化”には、工夫が必要になります(短絡的な快楽主義には帰結しない)。 宇宙の発生に、異なる認識可能性(h)の時系列化が必要であったように、その補完(時空仮説に対する無の射影)としての存在性に於ける認識可能性の他我化=愛こそが、生理的な認識性の最大化とその充足の最大化を両立させるのです。

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