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ハイデガーの空間論について
必要があってハイデガーの「Bauen Wohnen Denken」の一部を訳出せねばならなくなったのですが、どうしても意味が把握できないところがあり、質問させていただきたいと思います。 人間と空間の相互浸透性について指摘した後の文です。 原文(152) Die Sterblichen sind, das sagt: wohnend durchstehen sie Raume auf Grund ihres Aufenthaltes bei Dingen und Orten. Und nur weil die Sterblichen ihrem Wesen gemas Raume durchstehen, konnen sie Raume durchgehen. この空間をdurchstehenする、durchgehenするとは、どういうことでしょうか。普通に「持ち堪える」「通過する」では、いまいちピンと来ないのです。 初期ハイデガーの空間論は門外漢にもなじみがあるのですが、どうもこの時期のものはわかりません。どうか、よろしくお願いします。 ちなみに該当箇所の英訳です。 To say that mortals are is to say that in dwelling they persist through spaces by virtue of their stay among things annd locals. And only because mortals pervade, persist through, spaces by their essence are they able to go through spaces.
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もちろんハイデガーは構造主義者じゃありませんが、やはりことばに関しては、構造主義的に見ていくと良いのではないかと思います。つまり、「差異の体系」として見ていくんです。 ここでは、ひとと空間の関わりを示すことばがいくつかあげられています。 To say that mortals are is to say that in dwelling they persist through spaces by virtue of their stay among things and locations. And only because mortals pervade, persist through, spaces by their very nature are they able to go through spaces. ここには四種類の動詞がでてきます。 ・stay ・persist through ・pervade ・go through まずstay、これは一番大きな概念のことばですね。空間の中にとどまる、逗留するとはどういうことか。以下の論証によって細かく定義されていくのを待つことば、といってもいいし、そうした定義をすっぽり含むことばとして理解することもできます。 つぎに、persist through、これは当然、先述の橋のところにでてきた「距離の感覚を持ちこたえる」のpersistが響いていますし、pervadeとpersist throughは同格として用いられていますから、pervadeということばによって、persist throughをより、具体的に、鮮明にしようとする意図がある、と理解できます。 そうしてどこをpersist throughするのかといえば、go throughできることをその本質に持つ空間ということなんです。具体的にgo throughの意味に関しては、これに続く部分で詳しくその意味が説明してある。 つまり、stay―persist through/pervade―go throughの訳語は、そのような差異に基づいて決定されなければならないと思います。 したがって、以下のgo throughは、persist through/pervadeとの関連性において読まれなければなりません。同格で意味を補強することばなのか、包含関係があるのか、それとも対比させているのか。対比させているとすれば、何となにをか。差異があるとすればどこにその差異があるのか。 But in going through spaces we do not give up our standing in them. Rather, we always go through spaces in such a way that we already experience them by staying constantly with near and remote locations and things. When I go toward the door of the lecture hall, I am already there, and I could not go to it at all if I were not such that I am there. I am never here only, as this encapsulated body; rather, I am there, that is, I already pervade the room, and only thus can I go through it. 簡単に論理の流れだけを追います(ことばの吟味はしていません)。 空間のなかをgo throughするということは、わたしたちがそのなかに立つという状態をやめることではない。むしろ、わたしたちは、近くや遠くの場所や物たちとつねにともに留まる、というあり方によって、つねにgo throughしているのである。講堂に向かっているときは、わたしたちはすでに講堂にいる、そして「わたしが講堂にいる」という状態でいないなら、決して講堂に行くことはできないのだ。わたしはカプセルに入った身体のように、ここだけにいるということはできない、わたしはそこにいる、つまり、わたしはすでに部屋にpervadeしている、そして、そういうありかたによってのみ、go throughできるのである。 ここからわかるのは、pervadeに対して、go throughが一般的なことば、つまりpervadeという語になるためには、go throughは条件を与えてやらなければならない、そのような関係性にある、ということです。 やはり最初にあげたパラグラフの「肝」は、persist through、たとえばpersistを「持ちこたえる」と訳すならば、これもまた、持ちながらえる、などのような、すっと読み流すことのできない、十分に気合いの入った訳語を当てることが必要でしょう。 それに対して、go throughは説明のことば、もっと一般的でわかりやすい「通り抜ける」「通っていく」で十分可能であると思います。
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- kigurumi
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No.1です またまたすいません。 (連続投稿になってしまい荒らしと間違われそうだ。^^; 訂正機能入れて欲しい) えっと >そこには「浸透」(「遠近」の「持ち堪え」)がある、 >そしてgo throughというのはあくまで物理的な距離のレベルである、と(つまり深い意味は無い)。どうでしょうか。 むずかしいです。 人生を他の物質に例えて表現したりするし。 でも今回は物質的な距離の事を語っていると捕らえていいと思います。 人生観やら世の中のなりたちを表現しているとは文章から取れないので。 そして 「持ちこたえる」か「通過する・通る・通り抜ける」かですが、英語ではgo through には持ちこたえるという意味がありません。 ここでこの文章を持ちこたえるとするなら英語ではそれに該当するものを使うと思います。 韻を踏む必要も今回はないし、前後の意味からいってもわざと「持ちこたえる」という表現をgo through にしたとも思えないです~。
お礼
kigurumiさんとghostbusterさんのおかげで、なんとか解決できそうです。kigurumiさんもご指摘くださったように、go throughは普通に「通っていく」にしたいと思います。 ちなみに、「持ちこたえる」はpersist throughのほうです。いつも分かりにくい文章ですみません。 今回は、いろいろとお付き合いくださり、ありがとうございました。
- kigurumi
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No1です。 訂正です~ >No.1さんがおっしゃるように NO.1は私だった・・・ 「No.5さんがおっしゃるように」 でした。
- kigurumi
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No.1です。 すいません。 No.1さんがおっしゃるように、それぞれワザと違う単語を使うことによって、差をつけてどんどんハイデッガーさんが言いたい事を伝えようとしているようなので、go through は普通の表現で使う「通り抜ける」とか「通る」でいいのかなって思いました。
- kigurumi
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No.1です。 すいません ドアの部分訳しても仕方なかったですね。 もう頭ぼけぼけしてます 笑 >I already pervade the room, and only thus can I go through it. えっと、前言ったように空間で今と講義室は繋がっていて、まるで建物から建物は屋根つきの通路みたいな状態になっているってイメージがあるんです。 その人がドアに向かう意志というかそういう方向性が無いと、この通路は出現しないんです。 どこでもドアが講義室に向かうぞってなったとき出現するというか。 で、最後の行は 『私の存在は既に部屋にジワジワと広がっていっているのです。 だから私は部屋に入れるのです。』 (じゃなきゃ部屋に入れません) ということでこっちのgo throughは『入る(入れる)』というのが適切な気がします。 もっとかしこまった言い方だと『侵入する(侵入できる)のです』『入室できるのです』 翻訳ってその前後の文章の関係によって、同じ単語は使わないことあるので、前と日本語の単語違ってもいいような気がします。 あと、、読んでいてこんなこんな感じに思えました。 向かうとなった時 私の今1<部屋9、今2<部屋8、今3<部屋7 ってカウントダウンされていって 最後は今9>部屋1、今10=部屋 ってなるイメージがあります。 じわじわーって浸透しているって感じ。 砂時計の液体版みたいな感じ。
お礼
kigurumiさんの分かりやすい言葉で、私の頭もだいぶ整理されてきました。 問題なのは、ここでgo throughするのは「事物間的なレベル」(間隔)なのか「現存在 対 事物的なレベル」(遠近)なのか二つを混同して考えていたことです。 kigurumiさんがご指摘するのは、ここで問題となっているのは当然後者であり、そこには「浸透」(「遠近」の「持ち堪え」)がある、そしてgo throughというのはあくまで物理的な距離のレベルである、と(つまり深い意味は無い)。どうでしょうか。
- kigurumi
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No1です。 うわーん 1時間かけて書いたものを投稿しようとしたら、ログインしなおしてくださいって ><; 消えました~ 連続性断絶! 気を取り直してもう一度書きます。 ;; (えっとなんだっけ?) 前後の文章見ないとわからないって思って、海外サイトで見つけて前後読みました。 そしてイメージはあるんだけど適切な日本語は?って悩んでいて >人間と空間の相互浸透性について指摘した後の文です。 お? ありました! 灯台元暗し。 『浸透する』です。 「人は空間に浸透できるのです」です。 (と思います、、、かもしれません、、、だんだん消極的になってます ^^;) mortalsを小難しく訳してしまいましたが『人』でいいですね。^^; >durchgehen(go through)のほうについては、少し後のところで、 >「住まうというかたちによってこそ、家の扉をdurchgehenすることができるのだ」とあり >これは文字通り「通過する」ということなのかなという思いがあって、 >そうであるならば「空間を通過する」とはどういうことかと思ったわけです どこですか? 『When I go toward the door of the lecture hall, I am already there, and I could not go to it at all if I were not such that I am there. I am never here only, as this encapsulated body; rather, I am there, that is, I already pervade the room, and only thus can I go through it. 』 だとしたら、これは 「講義室のドアに向かうとき、私たちは既に講義室にいるのです」となると思います。 空間の連続性みたいなもので、向かう行為が既に今の場所と講義室が繋がっていることになり、別物扱いにならないって解釈だと思います。 このテーマの解釈は、我々は建てると住むを別個に考えがちだが、建てるとなった時点で既に住んでいることになるって言っているのではないかと思います。 旅行会社の宣伝文句でそれが流用されていて、「旅を計画した時点で既にあなたは旅を始めているのです」ってあります。 >durchstehen(persist through)の「含有」については、kigurumiさんがお示しくださった >誕生と死に見られる相補的バランス(←この用語は適当です)のような、 >死すべき者どもと空間の関係を指していると考えれはよいでしょうか >(そうであれば、「持ち堪える」という訳は納得です)。 この文章の場合はまだ死は生を含有しているという思考までなっていないかもしれません。彼は。 私が先走りすぎた ><; 今回『持ちこたえる』にしてしまうと文章が言っていること つまり二つが別物ではなく連続性により一体化しているということを主張するのに適していないように思います。 頼りなくてすいません。 一応 それのサイトのリンク貼ったので、他の人の解釈も待ちましょう。 それにしても すごいもの翻訳してますね。(^。^;) もう くらくらしちゃいました。笑
お礼
なにやら、二度手間をかけていただいたようで申し訳ありません。そしてまたまたお礼が遅れてしまったことをお詫びします。 さて、私の考えですが、現存在と事物の連続(浸透)性(すなわち、「近さ」)というのはkigurumiさんがおっしゃるとおりですが、同時に二つの間には「遠さ」(本質的な距離)があるわけですので、この「遠近」を「持ち堪える」という理解をしたわけです。どうでしょうか。 ちなみに、空間をdurchgehenするというのは「質問文」のところで引用した部分にあります。
- ghostbuster
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ドイツ語の知識がない上に、後期技術論について全然読んだこともないので回答するのを控えようと思っていたんですが、英訳サイトが見つかり、 http://acnet.pratt.edu/~arch543p/readings/Heidegger.html 読んでみたところおもしろかったので、わたしの「読書メモ」(笑)という形で、書いてみたいと思います。必要のないところは読み飛ばしてください。 まず冒頭でこの講演の意図があきらかにされています。 建築の理念をあきらかにしようとするものではないこと、芸術としての建築でも、技術としての建築術を考えるものでもなく、「建てること」を、すべてのものが属する世界のなかにさかのぼっていく試みである、としています。 そのうえでこの講演の目的は 1.「住まう」とはどういうことか 2.「建てること」はどのように「住まうこと」に属するのか この二点をあきらかにすることである、と。 まずハイデガーは「建てること」という語を、ドイツ語の古語にさかのぼって考えていきます。 The old word bauen, to which the bin belongs, answers: ich bin, du bist mean: I dwell, you dwell. The way in which you are and I am, the manner in which we humans are on the earth, is Buan, dwelling. To be a human being means to be on the earth as a mortal. it means to dwell. bauenの古語、buanが意味するのは 「あなたが存在し、わたしが存在する、そのありかた、つまり、わたしたち人間が地上に存在するありかたは、建てること、すなわち、住まうことである。人間であるということは、死すべきものとして、地上に存在すること、すなわち、住まうことである」 さらに「建てること」をふたつに分けていきます。 1.農地を耕したり作物を栽培することで、世話をする、ということ。この場合は Building in the sense of preserving and nurturing is not making anything. 2.船を建設したり、寺院を建立したりという、建造物を「建てること」。この場合は Here building, in contrast with cultivating, is a constructing. 以上のことから 1.「建てること」は真の意味で「住まうこと」である。 2.「住まうこと」とは「死すべきもの」が地上に存在する方法(manner)である。 3.「住まうこと」としての「建てること」は、ものを育て栽培するということと建物を建てることとして展開されている。 ところがこんにちでは、その「住まうこと」の本質的な意味が忘却されている。 ここからハイデガーは「住まうこと」への考察へと話をすすめていきます。 この「住まう」という語の本来的な意味は To free really means to spare.というのです。 このspareを仮にここでは「思いやる」と読んでいきます。 「思いやる」があらわれるのは、「死すべきもの」としての人間が、物を建て、地上に住まうことを考える(reflect)ときであるという。 そしてここから「死すべきもの」としての人間が「住まう」そして「思いやる」とはどういうことか。 1.「地」を「救うこと」:搾取したり疲弊させたり支配したりするのではなく、本質的なものへと「解き放つ」 2.「空」を空として「受け容れること」:太陽や月や星や季節をそのままに受け容れること 3.「神的な存在(divinities)」が現れるのを「待ち望むこと」:偶像崇拝ではなく、災いのなかにあっても幸福を希望するということ 4.「死すべき者」を死本来の姿へと「導いていく(initiate)こと」 このように「住まう」ということには四つの領域(fourfold)がある。 けれどもこの「住まう/思いやる」は「物」(things)とともにあり、「物」のうちに留まる。 そこからハイデガーは「住まうこと」と「物」との関わり、つまり第二の問い「建てることが住まうことに属するのはどのようなありかたか」に論を進めていきます。 そこで具体的な「物」として提示されるのは「橋」です。 The bridge gathers to itself in its own way earth and sky, divinities and mortals. 橋という「建てられた物」が、地上と空、神的なものと死すべき者、という四つの領域を集約するものとして提示されます。 この「橋」は、単なる象徴ではない。 橋のように、それ自身が場(location)であるもののみが、所(site)としての空間(space)を創り出すことができる、として、ここから「空間」の考察に入っていきます。 Space is in essence that for which room has been made, that which is let into its bounds.....Accordingly, spaces receive their being from locations and not from "space." 空間(space)とは本質において「空いた領域」(room)が創り出され、境界のうちに導き入れられたものである。…したがって、空間がその本質を受容するのは、場(locations)からであって、「空間」そのもの("space") からではない。 そうしてハイデッガーは、橋のように、場(location)として所(site)をあらしめるような物を「建てられた物」(buildings)と呼ぼうといいます。 そこから「場」と「空間」の関係、人間と「空間」の関係に話は進みます。 「橋」によって創り出された「空間」は、橋への「近さ」や「遠さ」において、「場所」(places)を含んでいます。 ただ、この「場所」は測定できる「隔たり」のある、単なる「位置」として扱われうる。そのために、人間と物の間の距離は、単に空間の物理的な距離となり、"spatium"として表象される空間では、橋はある地点を占める、置き換え可能なある物でしかなくなってしまう。 さらにこの"spatium"から高さ、幅、奥行きは「隔たり」として抽象化することが可能であり、純粋な三次元空間の多様性として表象される。 この抽象的な三次元空間は、「隔たり」としてさえ規定されることはなく、単なる「延長」、さらに抽象化されて、解析学・代数学的諸関係になってしまうのです。 The space provided for in this mathematical manner may be called "space," the "one" space as such. But in this sense "the" space , "space," contains no spaces and no places. We never find in it any locations, that is, things of the kind the bridge is. 数学的方法によって与えられた空間が「空間そのもの」と呼ばれることもありうる。けれどもこの意味における空間「そのもの」も、「空間そのもの」も、もはやいかなる空間も場所も含んでいない。「場」や「橋」のような「物」を見つけることはできない。 けれどもハイデガーがもんだいにしようとするのは、そうした「空間」ではなく、 The spaces through which we go daily are provided for by locations; their nature is grounded in things of the type of buildings. If we pay heed to these relations between locations and spaces, between spaces and space, we get a due to help us in thinking of the relation of man and space. であるということです。 そこから論は空間と人間に移っていきます。 空間は人間と対立するものではない。 ハイデガーのいう人間とは、物のなかで、先にあげた四つの領域のうちに留まるものである。場としての物との関わりを通して空間と関わる。このとき、空間は外的対象でもなければ、内的経験でもない。 If all of us now think, from where we are right here, of the old bridge in Heidelberg, this thinking toward that location is not a mere experience inside the persons present here; rather, it belongs to the nature of our thinking of that bridge that in itself thinking gets through, persists through, the distance to that location. From this spot right here, we are there at the bridge-we are by no means at some representational content in our consciousness. わたしたちがいま、ここから遠く離れたハイデルベルクの橋に思いを馳せるとき、その場はここにいる人の単に内的な経験ではない。むしろ、考えると言うことはそれ自身のうちで、その橋という物の場への距離(遠さ)を「持ちこたえている」(persist)のである。この場から、わたしたちが橋の場所にいる――わたしたちは決して意識のうちの表象作用の内容にとどまっているのではない。 で、やっとご質問の回答なんですが、このときのpersistは一般的な英語の持つ「持続する」という意味よりも、内的な経験ではなく物理的な距離として感じられる、ということですから「持ちこたえている」でなんら不都合はないと思います。むしろ#1の方がおっしゃる「含有」なり「包摂」なりと訳してしまうと意味がずれてくると思います。 ご質問の箇所に続いていきます。これは先の橋の喩えを展開させている部分ですから To say that mortals are is to say that in dwelling they persist through spaces by virtue of their stay among things and locations. のpersistも、上記の橋における場と同じ語として訳す必要があるでしょう。 >誕生と死に見られる相補的バランス(←この用語は適当です) という意味がわたしにはよくわかりません。人間を「死すべき者」ととらえていますが、誕生についてはふれられている部分はありません。 >死すべき者どもと空間の関係を指していると考えれはよいでしょうか そういうことです。 そして、このあと一応の結論が与えられます。 Man's relation to locations, and through locations to spaces, inheres in bis dwelling. The relationship between man and space is none other than dwelling, strictly thought and spoken. 「人間と場の関係、場を通じての人間と空間の関係は、住まうことのうちに含まれている。人間と空間の関係は、厳密に思索され語られた住まうことにほかならない」 長いばかりでまとまらない「回答」になりましたが、以上何らかの参考になれば幸いです。 わかりにくいところがあれば、補足ください。
お礼
年度末でいろいろ忙しく、お礼が遅れ申し訳ありません。適切かつ明解なまとめをありがとうございました。とても分かりやすいです。 persist through distanceという記述を見落としていました。おっしゃるとおり、 >距離(遠さ)を「持ちこたえている」 ということでしたら非常によくわかります。私が、「相補的関係」といったのは、『存在と時間』の現存在の空間性分析(ちくま学芸文庫版、上巻、p.226-249)のところなどに出てくる「開離」(Ent-fernung)の「近さ」と「遠さ」の関係のイメージから出したものです。適当なので、気になさらないでください。 そこで私が悩んでいるのは「遠さ」と「近さ」の共存の中でgo throughするというのをどう訳すのか(空間=開離的遠近をgo throughするとはどういうことか)、あるいはあまり深い意味はないのか、ということなのです。 いずれにせよ、「持ち堪える」についてのご教示ありがとうございました。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
「自信なし」にさらに「めちゃくちゃ」をプラスさせていただきます。 ^^; 『建てる、住む、思考する』って題ですよね。 私ドイツ語駄目なんで英語の方で考えると >この空間をdurchstehenする、durchgehenするとは、どういうことでしょうか。普通に「持ち堪える」「通過する」では、いまいちピンと来ないのです。 go throughは何かの中に入っていくときも使うし、経験するって意味でも使います。 今回は入っていく、侵入するって意味のように思います。 3行目から読むとイメージとしては、空間の中に死がちょこんとあって、それがジワジワと勢力拡大していって存在をアピールしだしているのを想像します。 で、えっと えっと。 部分で考えると、go throughは外から入ってくるイメージがありますが、今回は『内在している』とかいう意味になるのではないかって思います。 ハイデッガーって「死は生きた後にやってくるのではなく、生まれた時同時に存在している」って言った人ですよね。 『内在』『含有』 違うかな?
お礼
ご回答、ありがとうございます。本当に助かります(お礼が遅れ失礼いたしました。少し立て込んでおりました)。 durchgehen(go through)のほうについては、少し後のところで、「住まうというかたちによってこそ、家の扉をdurchgehenすることができるのだ」とあり、これは文字通り「通過する」ということなのかなという思いがあって、そうであるならば「空間を通過する」とはどういうことかと思ったわけです(この訳ですと空間が客体的なものに見えてしまいます)。ここのところはどう考えられますか(あるいは単なる言葉遊びか?)。 durchstehen(persist through)の「含有」については、kigurumiさんがお示しくださった誕生と死に見られる相補的バランス(←この用語は適当です)のような、死すべき者どもと空間の関係を指していると考えれはよいでしょうか(そうであれば、「持ち堪える」という訳は納得です)。なにやら、頼りっぱなしですいません。よろしくお願いいたします。
お礼
丁寧な解説をいただき恐縮です。構造主義的に見ていくというのは、おもしろい表現ですね。 ghostbusterさんのご教授のとおり、「持ちながらえる」「通っていく」で考えてみようと思います。 今回の件がきっかけで英訳を参照してみたのですが、durchstehenをpervade, persist throughとするなどかなり意訳しているのですね。 いろいろ勉強させていただきありがとうございました。