アプリオリということについて
アプリオリということについてお尋ねします。カントが使っているような意味を含みますが、一般に人間が生得的に持っている-という意味としてここで取り上げておきます。
アプリオリという言い方がなぜ必要なのかということを考えてみました。それは、主体が世界(事物)を客体として眺めるからだと思います。この時、主体の認識が客観的であることを保証するものを求めようとすると、どうしても無限遡航を生じさせてしまいます。
そうさせまいと思えば、デカルトのように神の保証を頼むか、カントのようにアプリオリな認識機能を想定するしかないように思います。デカルトの行った神の存在証明は間違っているので、結局アプリオリな認識機能を想定するしかないと思います。
また、科学の(実証主義的な)考え方においても、やはり、対象となる世界の事物は客観的なものと想定されているように思われます。そして、ある仮説が妥当であることを示すために実証(確認)作業を繰り返すわけですが、その際に、妥当だと判断する際の拠り所となるのは、最終的には実証者の確信に置かれるのではないかと思います(例えば、計測器具の数値を読み込む際の判断する場合や、実験データを組み合わせて何かを判断する場合など)。
その確信の拠り所となるのは、人間にアプリオリに備わっている認識機能あるいは知覚機能を想定するしかないと思うのです。あるいは、アプリオリに備わっている合理性にその根拠を求めるべきなのかも知れません。この考え方でよろしいでしょうか?
もう一つ、認識の際に前提とされている主観-客観関係を取り払ってしまった時、アプリオリということはどういうふうにとらえるべきなのでしょうか。世界内存在という存在態勢は、根本的な認識態勢でもあるはずです。この時、世界内存在という態勢そのものが人間にアプリオリなものなので、認識能力だけをアプリオリなものとして取り上げることにもはや意味がなくなっているように思うのでしょうが、いかかでしょうか?言い換えると、認識能力だけをアプリオリなものとして成り立たせている(存在させている)ものが世界内存在という態勢なのだと考えてよいのでしょうか?