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摂政関白太政大臣
昔の藤原氏に 摂政関白太政大臣の人って本当に居たのですか?
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ご質問の趣旨が曖昧ですが 1.同時に摂政・関白・太政大臣を兼ねた人物、ということなら制度上存在しません。天皇が政務を執れるようになれば摂政をおかなくなりますので、関白がおかれます。摂政と関白は同時には存在できません。 2.3職をすべて経験した人なら沢山いますよ。自分が摂政として動かした幼帝が順調に成長して成人になり、自分も長生きした人は高い確率で関白、太政大臣も勤めてます。 3.摂政関白太政大臣、などと名乗った、あるいは称せられた人はいません。摂政と関白兼務がありえなかったからです。 後代の人が「関白太政大臣」と誰かを呼ぶことはよくありました。例えば百人一首の「わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波」で知られる藤原忠通、彼は、「法性寺入道前関白太政大臣」として紹介されています。鎌倉時代以後に書かれた歴史書や、江戸時代の研究書にも「時の関白太政大臣」のような表現は多く使われています。
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- D-Gabacho
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ほかの方の回答にある通り、摂政と関白を兼任することはあり得ないので、生きているときに摂政関白太政大臣と呼ばれることはありませんが、死後の称号としてこれら三つの職すべてを経験した人物に使われることはあります。 東京大学史料編纂所データベースで検索すると以下の用例が出てきました。 藤原兼家(929-990)→東三条摂政関白太政大臣兼家公(『大織冠神像破裂記附録』) 藤原道長(966-1028)→関白道長公(中略)摂政関白太政大臣也(『寺門伝記補録』) ※実際には道長は関白になっていません。 藤原忠実(1078-1162)→摂政関白太政大臣忠実(『神木動座之記』) 九条兼実(1149-1207)→前大僧正良恵(中略)九条摂政関白太政大臣兼実公息(『仁和寺諸院家記』) また、全文検索が可能な国会図書館デジタルコレクションで調べたところ、近現代の書籍や論文にも「摂政関白太政大臣」は、三つの職すべてを経験した人物の地位を表す称号として多数使われています。以下はその用例の一部です。 南里智子『平安朝私家集論』(2000年) 総論 第二章 私家集の社会的地位と歌人の身分 ・道長[従一位摂政関白太政大臣]『御堂関白集』 ※道長は関白にはなってませんから誤り ・忠通[従一位摂政関白太政大臣]『田多民治集』 ※藤原忠通(1097-1164) 泉基博「『十訓抄』の敬語」(『甲南国文』1998年3月) 宇治殿(藤原頼通・摂政関白太政大臣従一位、第七の一三話) ※藤原頼通(992-1074) 東三条関白前太政大臣(藤原兼家・摂政関白太政大臣従一位、第一0のニ九話) 法性寺関白(藤原頼通・摂政関白太政大臣従一位、第一0の三ニ話) ※忠通の誤り? 鬼塚隆昭「六条御息所における史実と虚構」(『日本文学ノート』1992年1月) 摂政関白太政大臣忠平 ※藤原忠平(880-949) 藤原氏で三つの職をすべて経験した人物は、上記以外にも多数いると思います。 <参考> 東京大学史料編纂所データベース検索 https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/ 国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/
お礼
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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同時に「摂政」と「関白」になることは有り得ません。 が、「摂政」がそのまま「関白」になったり、「関白」が次の天皇の「摂政」になることはありました。 「太政大臣」は「摂政」でも「関白」でも同時になることはありました。 当時の慣例として現役中の最高官職名を通称に付けていましたが、「摂政関白太政大臣」と呼ばれた人物は存在しません。 「摂政」<「関白」<「太政大臣(相国)」の優先順なので、全ての経験者あるいは「摂政」「関白」在任中に「太政大臣」になった経験者は「〇〇太政大臣」や「〇〇相国」となります。 「〇〇殿」などと職名を残さない人もいましたけど。 道長の長男頼通は「摂政」「関白」「太政大臣」全て経験しましたが、通称は「宇治殿」でした。
お礼