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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:関白の世襲制について。)

日本史の関白制についての疑問

このQ&Aのポイント
  • 関白の世襲制について知りたい。鎌倉幕府の関白世襲の経緯や朝廷の考え方について教えてください。
  • 豊臣政権の職位による関白の表記について知りたい。豊臣氏の関白秀吉と秀次の表記方法について教えてください。
  • 豊臣政権初代の秀吉や2代目の秀次の表記はどのようにされていたのか知りたい。また、豊臣の天下が短期間で崩壊した理由についても教えてください。

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noname#224207
noname#224207
回答No.4

>元々、関白も太政大臣も征夷大将軍も世襲制は認められてませんと思っていました。 認められていた、とかいなかったということではなくその時々の政治情勢において黙認されていたということです。 時代を経るごとに朝廷とくに天皇家の実効支配力は低下していきました。 平安時代中期には本来は天皇家の家臣である藤原氏が牛耳っていました。 その結果、天皇に成り代わって政治を司る関白という要職は藤原一族が代々受け継ぎ結果として世襲という形になっていました。 参考 摂政・関白の一覧 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/摂政・関白の一覧 抜粋 藤原良房が人臣(皇族以外の者)として初めて摂政に任じられ(人臣摂政)、良房の甥で養子の藤原基経が最初の関白となって以来、摂政および関白の職は基経の子孫である藤原北家嫡流によって世襲された。 (1)幕府内での官位の継承とくに令外官(=臨時職)など、どうでもよかったということでしょう。 征夷大将軍というのが絶対的な権力を持ち権威となったのは江戸時代以降のことです。 荘園制度が末期の時期でしたので、朝廷の構成員である公卿の私領である荘園を維持管理する上で武家の協力が不可欠になっていた時代です。 本来は公地公民ですので、国ごとに朝廷から派遣される国司が各国を統治して武力もその指揮下にあるものとされていました。 これから逸脱したのが荘園です。 荘園というのは領主である公卿が直接管理していた訳ではありませんでした。 国司の力が及ばない以上は公権力に変わる権力の行使者として武家が必要でした。 自分達の権威に関わり合いのない令外官に誰が就任しようと左程問題にはならなかったでしょう。 仮に、意義を申し立てても武家にソッポを向かれたら自分の荘園が維持できなくなります。 頼朝がこのことを見透かして守護地頭という自分の配下の人間を正式な役人として認めさせてしました。 国司でありながら守護や地頭になった人もいました。 (2)形式的にはご指摘の通りですが、習慣的にご指摘のような表現がされないだけです。 実際上の政治的な権力は秀吉が持っていましたので秀次の関白は名誉職のようなものだったことも影響しているでしょう。 (3)秀次が実権を持っていませんでしたので「豊臣政権2代秀次」という表現には無理があるかと思います。 在位3年にして秀吉に日本を分割してその一部を嫡子である秀頼に渡すよう迫られています。 能力はともあれ。秀吉や家臣団の目から見れば朝鮮出兵時の留守番役程度と看做されていたのではないかと思います。 秀吉にしても徳川、上杉、伊達など並み居る敵対勢力に関白という権威を奪われないようにする予防措置でもあったかと思います。 早々と官位を身内に譲るということは家康もやっています。 関白という官位につきまして名実ともに備わっていた藤原氏の時代と、名誉職としての権威の象徴だけになっていた秀吉の時代とは切り分けてお考えになられることをお薦めします。 鎌倉時代以降南北朝時代を契機に武家と朝廷の政治的な位置づけが逆転していますので、御注意下さい。 室町時代末期には、御所の塀が崩れて通りを行く庶民から天皇が食事をしている光景が見えていたと言われるほど、経済的にも政治的にも朝廷のみならず天皇家も凋落していました。 にもかかわらず、天皇家がなぜ今日まで継承されているのか、という世界史に類例を見ない日本史最大の課題になります。

cma79458
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 結果的に摂関時代の政治をしていた藤原氏と秀吉の時代の関白職が此処まで違ってしまったんですね。 時代の変化は恐いですね。 勉強になりました。

cma79458
質問者

補足

と、言うことは元々は関白職も摂政職及び太政大臣も朝廷の実力者であった藤原氏が担ってたので、結局は豊臣という「源氏・平氏・橘・藤原」のお飾りということでしょうか?こんな理解できてない補足で申し訳ありませんが、今自分に理解できてるのは「豊臣という姓」は、仮もんで藤原朝臣という肩書で良いんしょうか? 最近まで深くも考えてないし、偶々興味本位で調べてることなので。どうでしょうか?間違ってますか? 返信の程、お願いします。

その他の回答 (6)

  • jkpawapuro
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回答No.7

話の前後関係が混乱してませんかね。 まず秀吉は近衛家の養子に入り、羽柴朝臣藤原秀吉となって関白になり、 その後豊臣の姓を下賜されて、羽柴朝臣豊臣秀吉です。 ですから近衛家の第?代関白となったあと、豊臣家の初代関白です。 藤原と豊臣はどっちも本姓ですし同時には名乗れません。

noname#224207
noname#224207
回答No.6

No.4です 補足を頂戴しました。 >結局は豊臣という「源氏・平氏・橘・藤原」のお飾りということでしょうか? お飾りではなく各々が独立した名字です。 >「豊臣という姓」は、仮もんで藤原朝臣という肩書で良いんしょうか? 名字には自称のものと天皇から下賜されたものがありました。 藤原という名字も中臣鎌足が天皇から下賜された名字です。 ご指摘の源、平、橘も同様に天皇から下賜された名字です。 秀吉の豊臣も当時の天皇から下賜された名字です。 仮ものではありません。 天皇から下賜された名字は本姓と呼ばれます。 秀吉は豊臣を下賜されていますので、他の血族に下賜された藤原は名乗れません。 名乗るとすれば羽柴関白太政大臣豊臣朝臣藤吉郎秀吉ということになります。 この名乗りを分解しますと 羽柴=苗字 関白=役職 太政大臣=位 豊臣=本姓(氏(うじ)) 朝臣=姓(かばね)・・・家の格 藤吉郎=通称 秀吉=諱(いみな) となります。 信長は平を本姓だと自称していたようです。 家康は初めは藤原を本姓としていましたが、途中で源に変更していました。 現在はいずれも詐称だとされています。 関白というのは天皇を補佐する役職です。 天皇に次ぐ最高の役職とされていました。 制度としては、平安時代からはじまりました。 天皇を頂点とする朝廷が名実ともに政治的な権力を保持していた時代には、関白にも同様の権力がありました。 武装した武家が台頭するのにつれて朝廷の実質的な権力が徐々に衰えていきました。 国家を統治するという天皇の実質的な権力を武家が凌駕するようになった戦国時代には 天皇を補佐する関白の権力も凋落していました。 戦国時代であっても形式的には朝廷が中央政府であり続けました。 ひらたく言えば、戦国大名がやることに朝廷が口出しができない時代だったということです。 古今東西、政治の世界というのは権力だけでは立ち行かないという性格があります。 現在でも、内閣の大臣の認証式では辞令に天皇の印である御璽が押されたものをもらいます。 大臣という役職に任命されたという権威づけです。 総理大臣に選ばれただけではダメだということです。 秀吉は実質的な権力は持っていましたが、権威がありませんでした。 この権威の象徴として天皇の補佐役である関白を手にいれました。 関白だったから権力があった訳ではありません。 秀吉の権力の裏付けはあくまでも武力でした。 日本の名字制度といいますのがおそろしくややこしいので、なにかあれば補足でご質問願います

回答No.5

関白・太政大臣は世襲が認められてないわけではありません 藤原氏は関白を世襲しましたし 平氏も太政大臣を世襲しています また 秀吉も関白・太政大臣を世襲しました 征夷大将軍は本来 蝦夷討伐の臨時職ですので世襲はありえない前提でした まぁしかし 頼朝は武家の棟梁となり天下統一を果たし 朝廷をも押さえつける権力を持ってしまった以上 朝廷も世襲にノーとは言えなかったと思います 実際実朝の死後 将軍職は朝廷の親王に譲られ親王将軍と言うお飾りとして世襲されています(幕府の実権は執権の北条氏) 頼朝-頼家-実朝の世襲でも 源氏の中で内紛が起きました(実朝が将軍になった事に不満を抱いた頼家の息子・公暁が実朝を暗殺した事件) 実朝の死後に 将軍職を朝廷に任せたのは そういった世襲への不満を和らげ 一応朝廷に配慮した形と思われます。 ちなみに豊臣家の場合 秀吉は近衛前久の養子となって関白を継いでいます(近衛家は藤原道長の直系) ですから豊臣家の関白の扱いは「関白豊臣家初代」ではなく「藤原氏」と位置づけれています さらに「豊臣」と言う姓は秀吉が朝廷から貰ったいわばお墨付きみたいな仮の名前で 秀吉は公式には「藤原朝臣秀吉」と名乗っていました 豊臣は通称みたいなものです

  • suicyo
  • ベストアンサー率43% (83/193)
回答No.3

(1)鎌倉将軍の世襲についての朝廷の認識 鎌倉時代頃になると官司請負制といって、公家社会では官職の世襲が一般化してゆきます。なので、鎌倉幕府を壊滅に追い込めない限り、鎌倉将軍が世襲となっても仕方がないと考えていたと思います。 (2)(3) 関白や太政大臣は父からから子へというストレートな世襲制ではありませんが、藤原摂関家などのような摂関になれる家格の継承という点では完全な世襲制です。 この家格に、豊臣家などの武家が一時的に割り込みました。 つまり、関白は豊臣政権の職位ではなく朝廷の職位なので、豊臣○代という概念はありません。あるとすれば、関白初代の藤原基経から何代目ということになりますが、最初の方の数代を除き、歴史書などで関白何代誰々という表記を見た記憶はありません。 豊臣政権としても、ご指摘の通り短期政権なので、政権として歴代を「制定」し顕彰する前に崩壊していますね。なので、秀次が2代目か否かちょっと微妙‥

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1973/9604)
回答No.2

cma79458 さん、こんばんは。 (1)最終的に平家を滅ぼした源頼朝の子孫である頼家や実朝が武家の棟梁として将軍にならなければ、鎌倉御家人の不満は高まるでしょう。地方では朝廷はもはや、機能しなくなり、朝廷の公家や院ですら、荘園からの年貢を当てにするくらいですからね。荘官をやっているのが実は武士であり、幕府成立後には地頭になります。 実朝の死後、源氏の血筋が絶え、五摂家から九条道家が新しく将軍になりますが、これも多少源氏の血筋があるからだということです。また、更に宮将軍の時代になりますと、もはや将軍としての力はなく、権威だけのお飾りになります。実権は北條得宗家が握っているので、もはや関係ありません。つまり、朝廷に対して、武士という新しい批判勢力をどうやって動かしていくのかが問題になってくるのです。 (2)豊臣初代関白秀吉、豊臣2代関白秀次でしょうね。 (3)豊臣政権初代秀吉、豊臣政権2代秀次、豊臣3代政権秀頼というところでしょうか?

  • jkpawapuro
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回答No.1

1うーんまず将軍職に対するイメージが、現代の(鎌倉末期以降)イメージと鎌倉初期あるいは以前でぜんぜん違いますよね。 まず最初に将軍ができたときは、朝廷に服従しない蛮族と戦うために一定の(辺境に接する)地域の軍権内政権を軍人に一括して任せました。 頼朝はその制度に着目し、関東武士が自分らで独立して自分らの所領を治める権利を確立するために将軍職を求めました。つまり本来将軍の権利って、ほんの一地域だけに認められたものだったはずなんですよね。 ですから朝廷も頼朝・頼家・実朝世襲に関しては規定路線、関東の支配権は認めるから頼むから自分らの荘園には手を出すなってのが目的です。 ところが鎌倉幕府は他の地域にも守護地頭を認めることにより徐々に支配地域を広げます。業を煮やした朝廷は武力討伐を試み承久の乱を起こしますが惨敗、軍事力が鎌倉幕府>朝廷であることを確立したことで鎌倉幕府は一気に支配地を広げます。