>小林多喜二の蟹工船とか、党生活者、 特高警察をテーマにした小説を 読んで思ったんですが、 よく言われている事のようですが、 プロレタリア文学は労働者の置かれた 過酷な労働環境を上手く描いているけど、 それだけならルポを読んだ方が良いと思うし、 他のジャンルより読んでいても 面白味はあまりないなという気はします。 みなさんはプロレタリア文学の存在価値、 読む意味はどこら辺にあると考えてますか?
⇒確かに、プロレタリア文学は、普通に言う娯楽という意味では、読んであまり楽しくはないかも知れませんね。(学生のころでしたが)確かに、ルポルタージュ的な臭いのする文学作品という側面もあると思いました。そこで私は、登場人物の過酷な境遇を追体験すること以外の視点はないものか、などと考えながら「ながめた」ものです。
著名な評論家ロラン・バルトは次のようなことを言ったそうです。いわく、起こりそうもないことをいかにも現実に起った出来事のように描くことがフィクションの極致であり、逆に、実際にあったことをいかにも現実離れした(日常茶飯事ではないことの)ように感じさせるように報告するのがルポルタージュの極致である、とか。そこで私は、そのあたりの「技巧・せめぎ合い・評価」を直に肌で感じられないか、そうすればもっと面白く読めるだろう、などと考えたものです。
青白い顔をしながら、『蟹工船』や『一九二八年三月十五日』を読んだ記憶があります。生々しい描写で登場人物の息遣いを感じました。原書(復刻版)で読んだので、時間的にも描かれた時代にワープし、臨場感を抱くことができました。ところで、小林多喜二は『蟹工船』を25歳で書いたのですね! そのときの自分の年齢もほぼ同じだったので、一体私は何をしているんだろうなどと考えて、恥ずかしい気持ちにもなりました。
(それはそれとして)『蟹工船』は、れっきとした新しい潮流の文学作品、つまりフィクションではありますが、描写が生々しいだけに、特に、時の政治運動に目を光らせていた特高警察はこれをフィクションとは見なさずに、告発的なルポルタージュと見たようですね。そのため彼は、逮捕され、断罪され、虐待を受けて、その果てに、33歳で亡くなりました。あまりに悲しいことだと思いました。同書の奥付にこうあります。「日本プロレタリア作家叢書第2篇 昭和四年九月二十五日(定価七十銭)」。本書の刊行から7, 8年後に亡くなったわけですが、せめてあと数年生きていたら、どんなにか素晴らしい作品を生み出していたことでしょう!
少しそれましたが、以上、ご回答まで。
お礼