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お殿様の側室の明治時代の苗字について
徳川慶喜の側室、一色須賀はWikipediaでは一色須賀のまま書かれていますが、徳川須賀ではないのは何故なのでしょうか??
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- oska2
- ベストアンサー率44% (2301/5116)
>徳川須賀ではないのは何故なのでしょうか?? 一夫多妻制度が、無かったからです。 何も旧殿様の側室だけでなく、昭和バブル期の富裕層・政治家の「お妾さん」も姓は変わっていません。
- D-Gabacho
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明治維新後、徳川慶喜は一色須賀をはじめ側室のほとんど(新村信と中根幸以外)に暇を出しています。つまり、明治時代の一色須賀は、すでに慶喜の側室ではなかったということです。 なお、公式に夫婦が同氏となるのは明治31年に旧民法が成立してからです。 <参考> 徳川慶喜の妻たち https://reki-historia.com/2020/07/30/yosinobu-wives/ 法務省:我国における氏の制度の変遷 https://www.moj.go.jp/MINJI/minji36-02.html
- f272
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江戸時代以前の妻の苗字は婚姻によっても変わりません。明治時代になってもいったんは夫婦の苗字は生まれた時と同じで変わらないと決められましたが、庶民からの反対意見が多かったので、今のように夫婦同姓となりました。 さて、一色須賀の場合にはもともとは一橋家女中であり、一条美賀子の女中となっても婚姻ではありません。その後に慶喜の側室となりましたが明治民法では正室以外が同じ苗字になることはありません。
- gunsin
- ベストアンサー率32% (416/1291)
#1さんの回答に有ります様に、公家や武家の慣習でしょう。 北条政子は源政子、日野富子は足利富子と表記されていません。 平安以前は女性の名前は公開されませんでした。 小倉百人一首では、紫式部、清少納言などの女房名で、蜻蛉日記の 作者は右大将道綱が母と表記されています。 通い婚が主流?だった名残りの為と推測されます、女性が相手に 名前を教える事は婚姻を承諾した事になり、夜這いに来てもOK ですよなのです。 万葉集には大王(天皇)が村の娘に、俺は大王なのだから名前を 教えろと迫る和歌が有ります、女性に選択権が有ったのです。
- toka
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江戸時代には女性の苗字に関する法令はなく、武家の妻は慣習により生家の苗字を名乗っていました。(母の生家を明示することにより、家督相続に際して生まれた子の兄弟間での地位が定まる) 正室は嫁いだ先の苗字を名乗ることもありましたが、慶喜の正室美賀子は徳川より格上の一条家から嫁いだため、一条と呼ばれることが多かったようです。