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深心院が吉宗の側室になった時点での服部越中守某
- 深心院の母は、禁裏の北面の武士服部越中守某の娘である。
- 深心院の父である禁裏の北面の武士服部越中守某の地位は高く、深心院と徳川吉宗の地位や身分を比較するとどれぐらいの差異があるのでしょうか?
- 深心院が吉宗の側室になった時点での服部越中守某との差異は、詳細なデータに基づいて調査する必要があります。
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> “禁裏の北面の武士服部越中守某” は、禁裏の北面の武士なので、そこそこ官位が高い様に思うのですが、 越中守という事は、官位相当だと正六位下に相当しますから、それほど高くありません。 六位と言う地位は、江戸幕府が管理する武家官位だと最下位(布衣の許可)で下級旗本クラスです。 服部越中守某は、北面の武士(曲がりなりにも院司ではある)ですから江戸幕府が管理する武家の位階官職とは異なりますので、越中守を名乗っているからと言って高位だと判断するのは適切ではありません。 (江戸幕府が管理している武家官位だと〇〇守は、四位や五位が名乗りますが、これは領地をもった武家の都合が反映された結果であり、北面の武士等には適用されない。) そもそも北面の武士の大部分は、朝廷の実務を担い貴族や諸大夫に仕える六位以下の侍品(サムライの語源)です。 もちろん例外は数多ありますが、その場合は諱が後世に伝わらないなんて事には成らないと思います。 ちなみに大名(一万石以上)や大身旗本、大大名の家老クラスは、正式に叙爵されると従五位下以上に成ります。 五位と六位の間には昇殿(貴族かそうでないのかと言う大きな壁が有ります。)ができるか否かの問題がありますので、その差は天と地ほど差があります。 なお、徳川吉宗は初任が従四位下と極めて高位(将来的に朝廷の最上位の公卿になれる可能性が有る)であり、禁裏の北面の武士服部越中守某と地位の上下を比較するのもおこがましい程の差があります。 (武家で公卿に昇れたのは徳川宗家か御三家・御三卿あるいは外様筆頭の前田氏ぐらい…。) 徳川吉宗に見初められ、一橋徳川家初代当主の生母なのに深心院が側室(家族ではなく使用人扱い)である事が、一族関係者の身分が低かったことの何よりもない証拠に成ります。
お礼
御回答ありがとうございました。 よくわかりました。