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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:深心院が吉宗の側室になった時の服部越中守某の身分)

徳川吉宗の側室の深心院の身分と服部越中守の差異

このQ&Aのポイント
  • 徳川吉宗の側室である深心院と、彼女の母の父である禁裏の北面の武士服部越中守の地位や身分を比較した場合、どれぐらいの差異があるのか疑問です。
  • 深心院の母は服部越中守の娘であり、禁裏の北面の武士の子孫です。禁裏の北面の武士は一定の官位があることが想定されますが、深心院が吉宗の側室となった時点の服部越中守と徳川吉宗の地位や身分を比較すると、差異がどれぐらいあるのか興味があります。
  • 徳川吉宗の側室である深心院の母の父である禁裏の北面の武士服部越中守の地位や身分と、徳川吉宗の地位や身分を比較した場合、どのような差異があるのか知りたいです。

質問者が選んだベストアンサー

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  • D-Gabacho
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回答No.1

深心院が吉宗の側室になったのは吉宗の紀伊藩主時代で、吉宗の官位は従三位権中納言。 北面の服部越中守某の官位は不明ですが、越中守の相当位は従五位下。官位でいえば中級以下の大名や大身旗本と同格になります。一応それなりに高い地位・身分といえますが、領地を持ち多くの家臣を従える大名とは違い、北面はいわば上皇の召使いに過ぎません。仕える相手が上皇だから単なる召使いなのにそれなりに高い官位が与えられているわけで、官位でいえば同じくらいの幕府の使者や京都所司代などが上皇のもとに来たときも、当然、召使いとして彼らに奉仕することになります。徳川御三家で公卿に列する紀伊藩主の吉宗とでは、隔絶した身分・地位の差があることはいうまでもありません。

noname#245429
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 よくわかりました。 北面の武士は、天皇若しくは上皇が勝手に官位を与えているだけで、朝廷の官位です。 一方、大名のは武家官位で別物なはずです。 しかし、朝廷のと同じ官位を使っています。 武家官位に、独自の官位を創らずに、朝廷の官位を用いたから、こんなにややこしい事になってしまったのだと思います。 また、武家官位に朝廷の官位を用いた事は、尊皇論の根拠となり、明治維新に繋がりました。 この事は、確か、新井白石も言っていました。

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