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家斉の側室は落飾しなかった?
将軍家の正室・側室たちは、将軍が没すると落飾しますよね。 中には尼屋敷に移る者もいたりして。 これは自分から「私はここに移ります」という意志によってのことなのか、それとも半強制的なものだったのでしょうか? また、将軍・家斉の側室たちは家斉死後に上臈御年寄上座などに任じられていて、落飾した気配がありません。 これはなぜなのでしょうか? 来月までに徳川将軍家のレポートを提出しなければならなくて・・・ だれか意見をください!
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- Pinhole-09
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もうご存知と思いますが お糸の方は、お以登の方で落飾して、墓地は谷中の徳川墓地、法名は本輪院で戒名は修連了顕大姉と続きます。 お宇田の方は落飾して、二の丸に入り、墓地は同じです。 法名は宝池院で戒名は恵月心明大姉と続きます。 探せばまだまだ出て来そうで、小説の種になりそうです。 家慶の側室も面白いようです。
- Pinhole-09
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面白そうなのでちょっと調べて見ました。 15人ほど判りましたが、お糸の方らしい人は見つかりません。 お歌の方は多分お宇田の方と思いますが、落飾して、谷中の徳川墓地に埋葬されたそうですが、法名は不明です。 なお お瑠璃の方は上臈年寄上座になりましたが、剃髪でなく摘髪だそうで、こう云うのもあるんですね。 「徳川諸家系譜」、「柳営婦女伝承」が参考になるようです。
- Pinhole-09
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将軍のお手がついた者は、落飾して桜田の御用屋敷(比丘尼屋敷)で一生を過ごす、決まりであると云われています。 従って強制的なものでしょう。 ただし完遂されたかどうか?。 11代家斉の時は側室40人(記録上では21人)もいたそうで、有名なお美代の方(12代の生母)は専行院に入り、他にも6人の中臈が剃髪したと「徳川将軍百話」に書かれています。 文献としての信憑性は不明ですが、参考になれば幸いです。 家斉死去の時は余りにも多すぎ、例外的処理をしたかも知れません。
お礼
ありがとうございます! かなりめんどくさい質問だったので誰も答えてくれないと思っていました。 やはり落飾してたんですね。そうだったのか! 大奥関連の本には何も書かれていなかったので、てっきり落飾していないものだと思っていました。 ところで、私の知る限り、お歌の方とお糸の方だけ法名や葬地がわかっていないんですが、ご存知でしょうか?