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権利のための闘争 イェーリング
たとえわずかな権利でも、自らの権利を守るために、必ず法廷闘争をすべきだ。それを回避しようとするのは臆病者だ と述べています。仮に法廷闘争で負けても、臆病者よりマシでしょうか?
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私はイェーリングの「権利のための闘争」を読んだことがありませんが、敢えて回答するとすれば、 仮に法廷闘争で負けても、臆病者より「マシ」だと言うことはできると思います。 例えば、そもそも「法」というものが、誰か(為政者や権力者)によって作られ、そういう力を持つ者たちの利益を守るために必須な「秩序」を作るための道具であるとすれば、その「法」の枠内で問題を解決しようとすることは、単にその有力者たちの維持に必須な秩序の維持に加担しているだけであって、そのような法的「解決」の可否はどちらにしてもその問題を抱えた人の権利を明らかにすることとは次元の違うものになってしまうかもしれません。 しかし、そうであったとしても、その人の権利を明らかにするために敢えて法廷闘争に打って出ることは、それ自体にその「法」の「秩序」をあらわにして、そこに見える不都合や不平等、不公正などを目に見えるものとすることができるかもしれない、という意味で、意義があるかもしれません。つまり、その法廷闘争に「負けた」としても、その人の権利をその「法」が明らかにすることを阻むものである、ということを示すという意味で、勇気ある行動なのかもしれません。 そういう意味で、法廷闘争に負けるとしても、敢えて法廷闘争に打って出て、その結果の如何にかかわらず、現状の「法」の限界や不都合、不平等、不公正などを暴くことにつながるとしたら、それは社会変革にとっては必要なことと言えるかもしれません。
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- agehage
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これはねぇ、さまざまな解釈があると思いますよ 小さな権利でも強く守ることは正義ですが、100円の問題を10万円の費用をかけて争うのは正しいとは言えない場合もあります 負けてしまって満足する方も少ないでしょうし、確固たる信念があれば闘争しないことも臆病ではないと捉える人もいるでしょう 裁判までする必要はない、自分の信じてることは変わらないという判断も同じくらい価値ある判断だと思います
お礼
自己の権利が蹂躙されるならば、その権利の目的物が侵されるだけではなく己れの人格までも脅かされるのである。 権利のために闘うことは自身のみならず国家・社会に対する義務であり、ひいては法の生成・発展に貢献するのだ。 とも述べています。 100円の問題を10万円の費用をかけて争うのは国家・社会に対する義務であり、ひいては法の生成・発展に貢献するのだ。 と解釈すべきだと思います。
お礼
素晴らしいお考えですね。 姿勢としては、常にそのような考えを持って立ち向かうべきです。 為政者や権力者に立ち向かうときもそうですが、知能の低い人間が衝動的にやった暴力行為に対しても、きちんと社会的制裁を加えることによって、再犯防止になり社会のためにもなります。 たとえわずかな権利でも、主張しないと人間ダメになると思います。 但し、病気や怪我のときは、休むしかないときもあります。