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上杉謙信

上杉謙信は織田信長に勝ったり、 武田信玄と互角に戦っていたから 戦争は強いと思いますが 政治家としては凄かったんでしょうか?

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  • eroero4649
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回答No.1

何かの本に「上杉謙信は、自分が生きている時代が戦国時代だと気づかなかった」と書いてあってすごく腑に落ちました。おそらく彼は、自分の生きている時代が古い秩序が終わり新しい秩序が生まれる時代の転換期であるということに気づいておらず、室町幕府体制というのを守るのがあるべき姿だと思っていたのだと思います。 だからこそ有名無実化していた関東管領も喜んでもらったし、その就任式の場で乗馬していた武将を見てキレたし、何度も上洛して足利家や公家と関係を築いていたのです。 世の中を「本来あるべき元の姿に戻そう」としていたんですね。だから政治家としては「すごく保守的な政治家だった」といえるのではないかなと思います。 また上杉謙信というと「いくさにバカ強い」ということばかりが注目されますが、一番優れているのが経済センスです。当時の越後は今と違って米どころではありません。けれど謙信は毎年のように関東に出兵していました。戦争というのは今も昔もとてもお金がかかります。その財源となったのが青苧であったといわれています。これの専売権を持っており、青苧とその製品を京都に売ることで大きな利益を得ていたという話が有名です。 謙信は何度も上洛しているのですが、もしかしたらその上洛は単純に「将軍や公家とパイプを作る」ということだけではなく、それを通じて京都への青苧製品の販売ルートを開拓してそれに成功したというのもあったのかもしれません(裏付ける資料はないので、私の想像です)。 謙信の敵であった関東の北条家は、目立った軍事行動をほとんど行っていません。それは北条氏康が平和主義だったせいではなく、戦国時代の関東地方は毎年のように凶作や台風による災害が起きていて、おまけにほぼ毎年冬になると北から上杉謙信というゴジラが出現して関東地方にやってくると作物などを略奪していくので、ほぼ年がら年中飢饉だったからです。 当時の農民は生活していけないとなると村を捨てて出ていってしまうので、人民に逃げられないように北条家は人々にお金を貸し、時に支払いをチャラにする徳政令まで出していたので財政状況がなかなか大変で、だから必要じゃない限りは大規模な軍事行動は起こせなかったのです。 そして武田信玄ですが、このお方はなんと申しますか、世間のイメージと違ってすっごいエグい内政をされた人です。 武田領の経済政策の一番の問題は「貨幣不足」でした。当時の貨幣の主流は中国から輸入していた銅銭でした。現代でいうと内戦の国では現地通貨より米ドルが流通しているのと同じ話です。この貨幣が常に不足していました。なにしろ内陸国で、甲斐信濃ともにこれといった「外貨収入」ができる輸出品がなかったのでね。だから武田領って周辺諸国に比べてもとても重税だったのです。 重税であるにもかかわらず家臣団を繋ぎ留められたのは、軍事行動を行ってその遠征先で略奪行為をすることには寛容だったからです。当時よく行われていたのが、敵対する領地を奪い取ったときにそこで捕まえた人々を奴隷として売り払うことでした。これは貴重な「現金収入源」でした。だから信濃の人々は、武田家と対立して略奪されるか、武田領となって重税を支払うかという割と究極の選択に晒されていたのです。 武田信玄が山梨県で神様扱いされているのは、信玄の時代になって甲斐国内では戦さがなくて略奪される心配がなくなったうえに、ヨソの領地に遠征してそこで略奪して財産を増やすことができたからです。 謙信といえば「敵に塩を送る」の話が有名ですが、これは今まで敵対関係にあったので信濃で塩を売るというルートがなかったので、いうてみれば「試供品」を盛大に配って越後の塩商人に新しい市場を提供したという一面もあります。 謙信という人は世間のイメージとは全く別に、経済感覚はとても優れていたと思います。「蓄財に長けた、保守政治家」ですかね。

o2b32
質問者

お礼

なるほど、謙信の行動は戦国時代の 常識から逸脱してた気はしますね。 ありがとうございます。

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その他の回答 (2)

  • jkpawapuro
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回答No.3

青芋の輸出で派手に儲けていたらしく、商才はあるのでしょうか、分国法もありませんし国内統治、統率といった国政面での事績はあまりみられません。

o2b32
質問者

お礼

そうですね、謀反が頻発してたというし、 あまり政治家としては才能が 無かったのかもしれないですね。 ありがとうございます。

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  • gunsin
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回答No.2

関東管領を引き継いだので、稲刈りが終わってから、小田原討伐 に行きました、北条は籠城して雪が降るのを待つ作戦でした。 雪がちらつくと越後に引き上げの繰り返しでした。 関東管領は要職ですが、実質的には何の権威もありませんでした。 時代遅れの感覚の持ち主かと。 局地戦には強かったですが、武田信玄との争いでは、信濃国を 信玄に取られてしまいました、戦国大名は領地を拡大して何ぼの 世界ですから、その点でも、信玄や信長に後れを取って居ますね。 戦争は戦わずして勝つが最善の結果です、軍師はこの為に駆けずり 回り相手を説得して味方にするのが仕事です。 山本勘助が武田に敵対していた真田を味方にしたので、信濃攻略 の糸口になりました。 関東の地で上杉に、なびいたのは数少ないですよね。

o2b32
質問者

お礼

謙信は常に部下の謀反に 悩まされてましたね。 政治家に向いた人では なかったのかもしれませんね。 ありがとうございます。

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