「戦国時代に義の心」そんなものあるわけ無いと、我々現代の小心者は言いますが、
あっても良い様な気もします。
戦国武将は、領地を支配しそれからの収入で兵を養い隣国との争いに備え、命懸で戦いに
臨むという、現在の政治家では考えられない状況にあるスーパーマンです。
謙信は経済的には青苧(あおそ)の販売管理(後の楽市楽座の様な考え方)で経済基盤を
強めました。この時代は戦国武将も土豪や一族郎党の頭から大きな領地を支配する者まで
様々で、兵も兵農分離以前のパートタイマー的な状態でした。
経済基盤を強めると同時に必要になるのは、いざと云う時に自分の下に結集し戦う盟友を
得ることでした。その為には姻戚による繋がりや、人質、攻守同盟等が利用されました。
謙信は自分の下に結集し戦う盟友を束ねる為の「大義名分」として「義」を選んだのでは
ないでしょうか。「義」を信じれば、今日の友は明日の敵の恐れも無く、所領を掠め取られる
恐れもありません。
「大義名分としての義」を標榜しているうちに、それが謙信の「心」と一体化したものとして、
後世に美化されて伝えられているのかも知れません。
謙信は信長との戦いに勝った後で「信長も存外弱い」と言ったと伝えられています。
鉄砲で武田を打ち負かした織田を、鉄砲が有効に使えない豪雨の中で打ち負かしています。
これを豪雨も計算に入れたしたたかな作戦と解釈すれば「義」を「効果的な大義名分」として
使ったしたたかさと重なる様な気がします。
武田信玄は「いざという時は謙信を頼れ」と勝頼に遺言しています。同時代人の中で謙信の
「心」も信頼されていた例ではないでしょうか。
その「義」の心が上杉家に伝えられたかに付いての他の回答は米沢藩に対して酷でしょう。
幕末の米沢藩は、藩内に佐幕派も勤皇派も有りましたが、対立は他藩の様に先鋭なものではなく、
藩自体としてはハト派でした。経済的には鷹山公以降の改革が功を奏し、名目石高18万7千石、
実質その2倍以上でした。軍政改革は東北諸藩の中では進んでおり、軍政部と民生部に別れて
いました。装備はまだ新式旧式混合です。
列藩同盟で主な役割を演じる事になったのは、新政府に恭順の意を表している会津藩の取成しが
契機で、藩断絶を救った会津保科家に対する「恩義」からと云われています。
しかし、薩長がこれを拒否し「遺恨から会津征伐」を強行した為に、それは「侍の信義」に
反するとして奥羽列藩同盟のリーダー格となりました。
世良修三の東北諸藩に対する侮蔑的発言が火を付けた形ですが、決断の過程で「義を重んじる」が
重要な役割を果たしていることは疑いも有りません。
「義」の伝統は守られたと言えます。
米沢藩は越後方面で戦っています。降伏後、会津と庄内に対して出兵を強要されていますが、
できるだけ出兵を遅らせ、会津には新政府の依頼で投降の仲介者として動いています。
米沢藩にとっては、新発田藩の裏切りで、新式兵器と弾薬の陸揚げ港であった新潟が陥落し、
新政府軍が村上(米沢藩ご用達商人の渡辺家が在る、庄内藩の本間家に相当)に迫った段階で
降伏するのは当然の成り行きです。深い山に囲まれた以外は、会津の様に堅牢な立て篭もる城も
無い藩ですから。
本来純外様ですから、ここまで義理立てする必要が有ったかどうかも疑問です。
敗戦の責任は軍事総督の色部長門(上越戦線で既に戦死)が取らされ(米沢では後日
名誉回復が成され碑も建てられている)、賠償金3万両を支払いました。
そのお陰で14万7千石に減封で済みましたが、10年後の西南戦争で戦死者52名を出して
います(戊辰戦争戦死者280余名)。
「義」に反する戦いに敗れた恨みは大きかったのかも知れません。
ちなみに、領民の嘆願と(本間家からの?)賠償金で軽い減封処分で済んだ庄内藩からは、
西南戦争に薩軍側に参加した旧藩士が居ります。軽い処分を(金のせいではなく)西郷の
温情と考えたためです。
会津藩は、賠償金も払えず、領民からの過酷な徴収の反作用で一揆が起こり、本州の
北の外れに移らざるを得ませんでした。
侍支配とその最後を美化した様な「八重の桜」をとても疑問に感じました。
会津の人々の偉さは、その後に有り、多くの文化人と教育者を排出した事です。
米沢藩が幕末豊かな藩であった事は、藩が廃藩置県時に藩士に10万両を支給している事、
円発行時に藩札1両が1円と交換された数少ない藩の一つである事などから明らかです
(戦費の為に藩札を乱発した薩摩藩は32銭)。
戊辰戦争後に東北地方を旅した女性旅行家のイザベラバードは米沢盆地の北をかすめる様に
通り過ぎ、その際に「この南には米沢という東洋のアルカディア(桃源郷)が在る」と言って
います。まだ戦いの余韻が残っている時期です。
侍の論理で住民すべてが戦争に巻き込まれた会津、昔から領民一体となり侍の筋を通しながらも
戦い最後には戦乱を避けた米沢、興味ある歴史の事例です。