謙信公の名誉のために申し上げますと、謙信は決して経済に疎かったわけではありません。謙信が長尾家の家督を継いだとき、長尾家にはほとんどお金がなかったそうですが、謙信が死亡したときには上杉家には充分な貯金がありました。謙信は実は上洛もしておりまして、そのときに京都の将軍家や公家と人脈を築きました。それを元に越後で青そを栽培し京都に輸出することで大きな利益をあげることが出来ました。
ただ、謙信公は領土的野心がほとんどありませんでした。良くいえば「義のために」出兵していたのですが、悪くいえば「単なる合戦マニア」です。そのため、せっかく出兵して勝利しても領土を取らないで越後に帰ってしまうので、家臣は家禄が上がりません。当時は、土地を手に入れることでその土地を家臣に与えることによって家臣は家禄が増えるのです。
つまり、現代の会社に例えれば社長はやたら社会貢献に力を入れるのに社員の給料は上がらないようなものです。いくらなんでも社員としてはやってられません。社長の社会貢献につき合わされるのに、です。
だから謙信は有名戦国大名には珍しくやたら反乱を起こされています。しかしながら「合戦の天才」であったためそれはことごとく鎮圧されます。しかし鎮圧しながらその家臣を見せしめに斬るようなことは極力しなかったので家臣団としても「謀反をしても殺されるわけじゃなし・・・」とまた反乱する、の繰り返しでした。
出陣の前には、春日山城に作った毘沙門堂でお祈りにふけるのが謙信の習慣でした。あるとき、家臣団が「私たちも一度毘沙門堂で一緒にお祈りしてみたい」といいだしたとき、謙信は「不要である」と却下しました。家臣団がなぜですかと聞くと「お前達の目の前にいるのが毘沙門天の生まれ変わりだから俺を拝めば充分」と答えたそうです。
謙信は思い込みが強い人だったようなので、結構本気だったかもしれません。
ちなみに、松平容保は会津藩です。上杉家は米沢藩です。松平容保の直系の先祖は保科正之で、彼は徳川秀忠の子です。だから会津藩は松平姓で、家紋も葵です。米沢藩最後の藩主上杉茂憲は戊辰戦争では幕府側につきましたが降伏し、なんだかんだいって新政府で活躍して伯爵の位をもらっています。ものすごい勘違いをする人もいるもんだとびっくりです。