• ベストアンサー

上杉謙信にも領土的野心はあった?

上杉謙信は正義と理想のために戦い,戦いといえばハイリスク・ローリターンなものばかりで敵から奪った領土は元の領主に返してあげていたという話を聞くけど、長尾家(上杉家)は謙信の代で200万石近い大大名になってますよね。 七尾城の戦いでも織田家を破ったりして越中とかそのあたりを上杉家の版図に加えることに成功してますよね。 実は上杉謙信にも北条氏康や武田信玄のような領土的野心があったということですか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • sicco
  • ベストアンサー率27% (134/486)
回答No.4

#3の補足です。 >しかし、居座ることなく引き上げたとなると、200万石という数字は越後、能登、越中の直轄地と、兵は引き揚げたけど影響力をもった関東と信濃を支配圏と計算しての数字ということですか? 200万石という数字の根拠は、自分にはよくわからないのですが、彼は異常なほど関東や信濃への出兵を繰り返しています。 出しては退き、出しては退き、という行動が、領地目当てではない「義将」と言われるゆえんであるわけですが、その中で直轄地にしたところもあれば、家臣に分配する土地もあったでしょうし、その土地の国人の領地を安堵してそのまま彼らを臣従させる、ということもあったでしょう。 まったく見返りなく出兵するだけでは、家臣はついてこないでしょうから。 ただその行動の動機が、領地拡大だったとは言いにくいんじゃないか、ということです。 出しては退き、を繰り返さなければいけない事情として、越後は雪国ですから、雪に閉ざされる前に本国に帰還しないといけない、といったことはあったと思いますが。

qazxcvfr4
質問者

お礼

ありがとうございました。 確かに真の動機が領土拡大でなくても、それもしないと部下がついてこないってのはもっともですね。 しかし、謙信公は確かにわからない人ですね。 織田信長などという宗教勢力と戦う卑劣な人(謙信から見れば特に)と同盟を組むくらいなら、もっと積極的に正義のための領土拡大に取り組めばよかったのにな・・

その他の回答 (3)

  • sicco
  • ベストアンサー率27% (134/486)
回答No.3

他の大名と同じような領土的野心があったかというと、そうは言えないと思います。 越後統一後は、関東に侵攻し北条家を破ったり、武田家に対抗するため信濃に侵攻したりしましたが、居座ることなく引き揚げています。 武田信玄亡き後は、武田を攻める絶好の機会をみすみす捨てて、織田との対決姿勢を見せました。 彼は生涯独身で、子孫を残そうとしておらず、「家」のために領土を拡げようという動機はなかったはずです。 彼は非常に複雑な人間で、領主でありながら家臣のケンカに腹を立てて出奔するなど、奇異な行動が目立ち、現代人の理屈で彼をとらえるのはなかなか難しい気がします。

qazxcvfr4
質問者

補足

ありがとうございます。 しかし、居座ることなく引き上げたとなると、200万石という数字は越後、能登、越中の直轄地と、兵は引き揚げたけど影響力をもった関東と信濃を支配圏と計算しての数字ということですか? しかし、川中島で疲弊したところを北条に攻められて関東のどこかの国を取り返されたという話も聞いたのですが・・ 関東においては兵を引かずにそのまま直轄領に加えたこともあったということですよね?

  • wsws
  • ベストアンサー率9% (256/2568)
回答No.2

関東管領上杉を継いだのですから多分に会ったと思います。 長尾も関東の名門ですがそれより上の上杉で行けば恭順する敵も居ると踏んだと思います。 結果的に信長秀吉の流れになりましたが、上杉を継いだ頃はまだ天下は確定ではないと思います。

qazxcvfr4
質問者

お礼

ありがとうございます。 でも、上杉を継いだのは、彼が権威とか格式を重んじる性格だったからかもしれないですよね。 領土拡大を狙ってたかもしれないけど、ここからは導けないのでは?

  • Willyt
  • ベストアンサー率25% (2858/11131)
回答No.1

全く領土に関する野心がなかったと云えば嘘になるでしょう。ことに晩年には京都へ上るためという名目があったにせよ、神保氏を追払って能登・越中を自分のものにしています。  彼の理想は足利将軍家の再興でした。昔の秩序に戻すことが一番民衆のためになると信じていたようです。  ただ、上杉氏の財政は他と少し違っていました。他国は米を収入の殆どを占めていましたが、上杉氏の収入は金と青疎と云われる麻のような繊維でした。つまり、広大な領土を必要としなかったのです。これと明治に至るまで最大の人口を有していたことが越後を強大にした源泉でした。

qazxcvfr4
質問者

お礼

少なくとも晩年は純粋に領土拡大を狙ってたということですね? まあ、正義や理想を貫くといっても力がないとそれができないからということですかね(?) しかし将軍家の再興というのは本当に最後まで考えていたことなのでしょうか?1573年に幕府が滅んで織田が強大になっていくわけですが、途中から幕府の再興よりも力のあるものが天下をまとめて乱れた世を正すべきだみたいな考えにシフトするのが筋の通った考え方だと思うのですが。 謙信はロマンチストでありながら合理主義者でストイックで物の道理をなんとしても通そうとする性格の人ってイメージがあるのですが、そういう人物だったら、上にかいたような考え方をしますよね。

関連するQ&A