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二璋一尾・季子の意味
先祖の墓石の碑文に刻まれた二璋一尾・季子の意味を教えてください。文脈からすると(二人の息子,一人の娘・末子)と推測したのですが?辞書に載ってないので確信出来ません。 ○○娶某氏生二璋一尾長女嫁○○村○○氏次○○継其家季子○○稱
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全文のご提示があり、恐縮しています。 一応私なりに読み下してみましたが、このような感じでしょうか。読み違えについては御寛恕ください。 「君、諱(いみな)は重方、傳左衛門と稱せり。天保十一年庚子(1840年)四月尓日、年八十にして没し、先塋(せんえい)之側に葬らる。重方、某氏を娶り二璋一尾を生す。長女、市原村江幡氏に嫁し、次定吉、其の家を継ぐ。季子重義、祐三郎と稱す。初めて重義、諸國を遊歴せし後、 幕府之士梶清三郎に事(つか)へ、判之進と更(あらた)む(ここのくだりは自信がもてません。読み違えているかもしれません。)。訃を聞きし之後、慨然として負米之歎あり。日夜、一孝之立つ無きを悔ゆれば、遠く墓表を余に託し、以て不朽を謀る。重義甞(かつ)て吾が祖父友甫君に従ひしを以て、辞す可からず。之を叙す者は、鈴木重之、字は一正。時に文久紀元辛酉(1861年)八月并書す。」
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「大漢和辞典」で、「璋」と「尾」について調べてみました。 「璋」(しょう)は、(1)瑞玉の名。(2)ひしゃく。(3)たま。(4)あらわす。あきらか。と、ありました。人名には「テル。アキ。」などの訓で用いられます。中国では、男子の名に用いられることが多く、明の創始者、「朱元璋」の名にも見られます。以上のことから、やはり、「男子」を表しているものと見てよいように思います。 さて、前回不明だった「尾」(び)のほうですが、十六個の語義が示されている中に、「みめよい。」と言うのがありました。普通の漢和には出ていない字ですが、女偏に微と書いた字があり、その字の字音「び」に通じるそうです。「尾者、好貌。」(尾は、好き貌なり)ともありました。よって、こちらも「女子」を表すものと見て、ほぼ間違いないでしょう。双方をあわすと「玉のような男子、見目良き女子」と言うことになります。「季子」(きし)については前回書いたとおりです。 ネット上で見たいくつかの碑文では、「○男○女」と書き表しているのが普通でしたが(参考URLを下に一例のみお借りしてきました)、一般の墓石に刻まれる碑文については見ることが出来ませんので、何とも言えない所です。ただし、「璋」や「尾」を用いた刻文も多くなされているのでしょうし、あるいは少し格調の高い表現なのかもしれませんね。 私のほうの調査はこれで終了させていただきます。 少なくとも、「尾」は女子を低く扱った言葉ではなく、「器量がよい」と言う意味であったことにほっとしています。調べ直してみて良かったです。 (「大漢和辞典」を参照されたい場合は、最寄の図書館にご相談ください) http://216.239.57.104/search?ie=EUC-JP&lr=lang_ja&hl=ja&q=cache%3Ae-nhPOqJ1oAJ%3Ahttp%3A//www.hum.ibaraki.ac.jp/mayanagi/paper01/gyoukou.htm+%D5%B8%C6%B1%C8%CD%C2%E7%BE%C2%BD%F7%A1%A2%C0%B8%BB%B0%C3%CB%BB%CD%BD%F7+
お礼
一尾の謎が解けてスッキリしました.大変有難うございました.鈴木重之の正体は未だ謎ですが,下記に全文を書いておきます. 君諱重方稱傳左衛門天保十一年庚子四月尓日 没年八十葬于先塋之側重方娶某氏生二璋一尾 長女嫁市原村江幡氏次定吉継其家季子重義稱 祐三郎初重義遊歴諸國後事 幕府之士梶清三 郎更判之進聞訃之後慨然有負米之歎日夜悔一 孝之無立遠託墓表於余以謀不朽重義甞以従吾 祖父友甫君不可辞叙之者誰鈴木重之字一正于 時文久紀元辛酉八月并書
通意のうしろのほうですが、「末子である次男○○は、~と名乗った」のあやまりでした。たいへん失礼いたしました。 「美玉」というと、今の時代なら女性のことを指しそうですね。おからだお大事になさってください。 つたない読解で、ご先祖様に失礼のなかったことを願います…。
お礼
有難うございました.大変参考になりました.先祖も喜んでいると思います.
ご推察のとおりではないかと思います。 「璋」(しょう)は、手元の漢和辞典によると、「美玉」の意と出ております。三人のお子さんが生まれ、うちお二方の名前が記されていることから、「二璋」が二人の男児、「一尾」がお一人の女児を表しているものと思います。「尾」は、女児についてこのように表現していたのだと思います。 「季子」は、辞書にも出ていますが、男女を問わず「末子」「末っ子」のことです。 全文を読み下すと、「○○、某氏を娶(めと)り二璋一尾を生(な)す。長女、○○村○○氏に嫁し、次○○、其の家を継ぎ、季子○○、~を稱(とな)ふ(または、しょうす)」となるかと思います。 通意は、「○○が某氏を娶って二男一女をもうけた。長女は○○村○○氏のもとに嫁し、次子であり長男である○○が本家を継いだ。末子である次男は○○と名乗った。」ではないかと思います。 あまり自信はないので、ほかの方のご意見も伺ってください。拝。
お礼
読み下して頂いて有難うございます。碑文は孝子判之進、孝孫定吉が建てたと記されていました。定吉は私より五代前になるのですが、判之進の兄定吉と、息子定吉が同じ名なのでどちらの系統かが不明になっていますが、その後、放蕩息子が出て没落します。江戸後期の自分の先祖(百姓身分)の暮らし振りが垣間見えて感慨深いものがありました。