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キリスト教の愛(アガペー)の仏教語

キリスト教で高次の愛(アガペー)は、それに満たされたとき、 至福の心境になるということを教えられました。 私は仏教に心を惹かれていますが、なんとなくこのキリストの教えに共感するとともに、果たして仏教ではどんな言葉に置き換えられるのかと疑問に思いました。 あまり趣旨の異なる宗教を置き換えるのは好ましくないかもしれませんが、しいて言えば 「こころ」という言葉がしっくりきますが、いかがでしょうか? *愛 というと欲(エロス)のほうに解釈されそうです

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回答No.4

5年分掘り返してここまで出てきた。 愛の概念はこう定義できまいか。 https://okwave.jp/qa/q9517632.html キリストの真実の愛とは実にお粗末だ https://okwave.jp/qa/q9648868.html キリスト教の教義の中心はファッキンである https://okwave.jp/qa/q9643297.html さて、絆の概念と愛の概念を比較するテキストにもっと出来がいい奴があったが、かなり昔の研究だったんだろうなあ。 まあこう、 生命存在は生きようとする。 社会的な存在である人は人同士でお互いを理解し合って人間を成立させる。 そして人間として共に生きようとする。 自己の自我を規定する学問も、この過程での社会というよりも環境への適応のためだ。 ココに条件を私はつける。 人間とは自らが生きることに等しく他者も生かすことだ。 あくまで自らに等しく計らうことが重要である。 ココから複雑な証言。 無意識というのは、思考を言語だけに依存しない。 「鼻が利く」という言い回しがある。 印象を嗅覚になぞらえれ理解することだ。 大抵は人はビジョンやイメージと言われる映像の内観を思考や意思決定の補助に使っている。 オーラというのは、漠然とした雰囲気などを色彩に置き換えることだ。 こうして例を挙げると、人は意思決定などに反映する思考と同じ効果に言語以外を総動員している。 (実は私は言語思考しなくても、イメージ形成を紙芝居にしてその映像だけで思考そのものを実現できる特技がある。) 無意識というのはこうした過程で五感を総動員して、他者の五感を自己で再現することで他者を理解しようと試みる。(相互の精霊伝心でお互いが自覚することが必要) はっきり言って憑依現象だよ。(妖精さんの話ばっかりするのはそれが理由だ) そうであるならば、(その通りだけど)五感を通して血を交わらせるような深い他者との理解が、言語思考の前提段階で形成する。 この言葉に表せなくても自覚できる深い親密さが「絆」だ。 そして、理解し合ったものは、血の交わりが出来て、自らを生かすことと他者を生かすことが全く同列になる。 このように絆を軸に深い相互理解を説明したのが「アマテラスの善」であり、愛は、全く同じ過程を(天界の教えである天啓)を感情面に焦点を当てて、同じく人の善性とお互いの相互理解を導くための命題であった。 愛の教えはその先に善を導き出さないと完成しないというわけだ。 アマテラスがローマ主神より上位であるというのは、この善の概念の確立レースで実質的に同じアプローチをして。私が哲学的な善性の定義の一つを「アマテラスの善」と命名権行使したことだ。 愛の命題とは、外国渡来でもう日本人は付き合う必要がない。 「絆」の方がより内容が深く明白な概念だ。

Yepes
質問者

お礼

ありがとうございます。 深いご回答大変恐縮です。 リンクはまだ読みこなしていないため、時間をとって閲覧します。 「絆」いい響きです! こころにとめます。

その他の回答 (9)

回答No.10

日本人の場合は、多くの事例でここに投稿した先人が残した病気の痕跡があり、愛の命題にはまってそれだけで悩むのは獣道なんだ。 むしろ避けるつもりの方が心が健康になるよ。

Yepes
質問者

お礼

ありがとうございます。ほどほどに追及して健全にすごします!

回答No.9

> 「こころ」という言葉がしっくりきますが、いかがでしょうか? これはいい線を行った見解で、なぜそう思ったかは、「感情からの研究アプローチ」として愛をシンボルにしたからだ。 したがって、私以外の回答者さんの見解もおおむね同じ方向性で一致していて、仏教の場合は「慈悲」から悲しみを取り除いた「慈しむ心」で満足できる正解に近いだろう。

Yepes
質問者

お礼

ありがとうございます。 いつくしむ、、これです。これが一番近いようにいま思いました。

  • kurinal2
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.8

Yepes様、おはようございます。 私は、どちらかというと仏教から入りましたが、「他者との協力(共生)」ということを考えた場合、キリスト教(一神教?)の言うことも一理あるかな、と思った時期が、有りました。 いわゆる「大乗仏教」も、そうしたところから派生してきたのかなと思います。

Yepes
質問者

お礼

ありがとうございます。 大乗仏教、だんだん専門的になってきました

回答No.7

N4はあなたのために書き起こしたのではないよ。 最近哲学研究者どうしで行った雑談をコピペしたんだ。 良く読み解くと今回の質問はスッキリすると思うけども、哲学なので読み解くのは知性的な格闘でもあるだろう。 健闘を祈るよ。

Yepes
質問者

お礼

ありがとうございます。健闘します。

回答No.6

日本人の場合には、絆というのを正しく了解した場合は、それは西洋が苦労して到達するアガペーだよ。 西洋文明は文明の墓場だ。 愛からアプローチしなくてもいい。

Yepes
質問者

お礼

ありがとうございます。 絆という言葉は東洋の文化に根差しているニュアンスがあります。

回答No.5

一つ下を見ると参考になるだろう。 全部伝うとかなりのテキスト量だけどね。 愛情と友情を並列させると、日本人は社会に対する心構えが確立しやすい。 慈悲の慈という言葉は友に傾ける思いの事だ。 そうすると、仏教ではアガペーを「慈しみ」と言い、神道で同族の盤石の連帯を表現すると「絆」だ。 愛の概念は何故ああまで闘争を呼び宗教そして社会を安定させないかについては、一つ下にもヒントがちりばめれれている。

Yepes
質問者

お礼

ありがとうございます。 愛という言葉は解釈に注意ですね、、、

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11203/34803)
回答No.3

元々「愛」という言葉が仏教用語から来ていて、人類愛や博愛的なニュアンスで用いられていました。 なので戦国武将に「愛」と書いた前立てを兜につけている武将がいる(直江兼続)のですが、この場合の「愛」は我々のイメージする愛ではなく「こんな殺伐とした戦争の時代が終わり、人類愛が満たされる時代になって欲しい」という意味なのです。 明治時代に「love」を翻訳するにあたって、愛という文字を持ってきたのです。ちなみに英語の「love」も、本来は「神様から人間への愛」のときに限定されて使われる言葉でした。人間同士の性愛では「love」は本来使っちゃいけないみたいですが、時代が下るにつれて今の使い方になりました。 で、エロスのほうを意味する言葉は「恋」でした。古語では「恋」はセックスを意味する言葉なので、万葉集に「我が背子に 我が恋ふらくは 夏草の 刈りそくれども 生ひしぐごとし(私のあの人を思う気持ちは夏草のように刈り取っても刈り取っても生えてくる)」というのがあるのですが、「恋」という文字を当てたときは「やってます」という意味なのです。 だからこの句は「あの人を想う心は尽きないわ」という意味より「あの人とのセックスが忘れられない」にちょっと近いニュアンスになりますね・笑。 キリスト教の画期的なところは、イエスが「神はあなたがたを愛している」と説いて回った点にあります。イエス自身は自分のことを新しい宗教を作った革命家とは思っておらず、あくまで自分は「ユダヤ教徒の一派」と認識していました。パウロ以外のイエスの弟子もそう認識していました(もしかしたらユダは「イエスは革命家だ」と気づいていたかもしれませんが)。 それまでのユダヤ教においては「神は堕落したお前たちに大変にお怒りである」と説かれていたのです。新約聖書に出てくる「洗礼者ヨハネ」も「神の怒りは近い」と説いていました。また旧約聖書においては、神はノアに箱舟を作らせて世界中を水没させたり、ソドムとゴモラを壊滅させたり、しばしば人間に怒りの鉄槌を下してきました。ユダヤ教においては神はゴジラのような「荒ぶる神」だったのです。 そんな中でイエスは「違うんだよ、神はみんなを愛してるんだよ」と説いて回り、彼は神のことを「アバ(父ちゃん)」と呼びました。父ちゃんが子供たちを愛しているように、神様もお前たちを愛しているんだよといったのです。それを象徴するのが有名な「山上の垂訓」です。みんな神様に愛されてるよと説いたのです。 仏教でキリスト教的な考えに近いのは、浄土真宗だと思いますね。あの有名な「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや」です。この言葉の解釈は様々にあるのですが、非常にキリスト教的な解釈として「良いことをした善人が極楽浄土に行けるのだから、悪いことをした悪人がそれを心から悔いて改めたなら、極楽浄土に行けないわけがない」というものがあります。

Yepes
質問者

お礼

ありがとうございます。 >仏教でキリスト教的な考えに近いのは、浄土真宗だと思います 宗派によって世界観が大きく違うんですね。そこまで見えていませんでした。曹洞宗しか触れていないのでした

noname#251944
noname#251944
回答No.2

アガペーは神からの愛なので、 仏教にはないと思うのですが、あえて いうなら大慈悲(仏の慈悲、仏の教え)が近いのではないでしょうか。 ちなみに人間の慈悲は小慈悲といい、 仏教は慈悲を教える(慈悲の瞑想など)宗教だと思います。

Yepes
質問者

お礼

>大慈悲(仏の慈悲、仏の教え)が近い ありがとうございます。 少し近づいてきたきがします。 慈悲、、

  • sutorama
  • ベストアンサー率35% (1688/4748)
回答No.1

仏教の場合は基本、全ての欲を捨て去れば、悩むこと無く、羨むこと無く、人を蔑むこともないことが、求められます 「少欲にして足(た)るを知る」(少欲知足) 意味は、「少欲」とは、欲望にふくまれる問題点に無自覚なまま、単純に欲望を肯定し、ほしいままに欲望に従う生き方にたいする誡(いまし)めのことばです また、「知足」(足るを知る)とは、自己中心的な欲望に執(とら)われたわが身のありかたを深く省みることを通して、真に心が満たされるような願いに目覚め、生きることをいいます 故に、書かれているアガペーの満たされるという感覚は、存在し得ないのかもしれません

Yepes
質問者

お礼

>アガペーの満たされるという感覚は、存在し得ないのかもしれません ありがとうございます。 そこなんです。あるような気がしています。 私の知識不足なのかもしれませんが

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