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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:なぜ日本の仏教は教えるのではなく唱えるのですか?)

なぜ日本の仏教は教えるのではなく唱えるのですか?

このQ&Aのポイント
  • 日本の仏教ではなぜ経典を翻訳して教えるのではなく唱えるのか疑問に思っています。
  • 他の外来の宗教では翻訳して教えを広めていますが、日本の仏教はなぜ翻訳しないのでしょうか?
  • また、インドや中国に伝わった仏教でも経典は翻訳されており、それを唱えるのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • magga
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回答No.7

<<書店の新書コーナーに行くと、日本語訳された物も置いていますね。翻訳本があるのは知っているのですが、それをベースに教えたり、経を読んだりする宗派ってありますか?>> パーリ語の仏典を一切変えないように努力してきたテーラワーダ(上座)仏教がありますよ。 日本テーラワーダ仏教協会などもありますね。 経典勉強会や講演会・書籍・冥想会・質問会(自由な質疑応答)など比丘の方々に活動してもらっているようですよ。 私もたびたびお世話になってます。 他の宗派などにはあまり詳しくありません。 <<パーリ語って初めて知りました。サンスクリッド語→ヒンディー語かと思っていました。「難解で学の有る宗教家などしか読めない言語を使わずに当時の一般的な言語のパーリ語で記されていますね。」なるほど、やはりそうですか。>> サンスクリッド語も難解な言語の一つのようですね。

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質問者

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回答ありがとうございます。 >パーリ語の仏典を一切変えないように努力してきたテーラワーダ(上座)仏教がありますよ。 > >日本テーラワーダ仏教協会などもありますね。 シッダールタの教えを伝える事を中心に置いた仏教も日本に存在するのですね。

その他の回答 (10)

  • booboox
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回答No.11

日本語化されたテキストを基に、シッダールタの教え伝える事を中心に置いた仏教がこの日本に存在するのか」と疑問に思っていました。 >>>>>鉄腕アトムの漫画家で有名な手塚治虫氏が、漫画で、シリーズ物をやさしく書いていますし、その手の漫画や本は、ごまんとあります。 ただ、結局、漫画は漫画のよさがあり、お経はお経のよさがあるのです。老人の痛みが、若いうち、気がつけないのと同じです。 お経が必要なければ、自然にこの世から無くなるでしょうね。 まだ、なくならないことを思うと、老人にとっては、今のままが良いのかもしれませんし、あなたが老人になったころには、読経することも、なくなるのでしょうね。 つまりは、中国でもお経はそのままでは見ても聞いても分からないモノだという事ですね>>>>一概にそうは、思いません、今は、近年起きた文化大革命で破壊された寺が、中国では、復興されており、同じような読経スタイルですね。 文化大革命をお調べください。

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質問者

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回答ありがとうございます。 >日本語化されたテキストを基に、シッダールタの教え伝える事を中心に置いた仏教がこの日本に存在するのか」と疑問に思っていました。 > >>>>>>鉄腕アトムの漫画家で有名な手塚治虫氏が、漫画で、シリーズ物をやさしく書いていますし、その手の漫画や本は、ごまんとあります。 どうしても、伝わらなくて論点がズレてしまい申し訳ありません。 既に申し上げた通り、翻訳書や漫画の存在は存じています。 手塚の「ブッダ」は子供の頃に読みましたし、般若心経を解読する新書や、「親鸞」などの小説も読んだ事があります。 翻訳テキストの存在を疑ってはいません。 釈迦と部族名で呼んだり、 仏陀とキャッチフレーズで呼んだりせず、 本名で(ゴータマ)シッダールタと呼んでいる事で全く知識が無い訳ではないと察して頂けるかと思いましたが。。。 >お経が必要なければ、自然にこの世から無くなるでしょうね。 お経はシッダールタの教えなのですから、 お経が必要ないという事はシッダールタの教えが必要が無いという事で、 つまりは仏教が必要ないという事です。 ま、いずれにしても必要なければ、自然にこの世から無くなる事に変わりはありませんが、 そういう問題ではなく、 日本においては、 お経=シッダールタの教え ではなく、 唱えると加護や利益を得る呪文のようなものにスリ替えられている事に違和感を感じています。 シッダールタの教えを素直な形で教え広めている宗派が周りに見当たらないのに疑問を感じています。 >つまりは、中国でもお経はそのままでは見ても聞いても分からないモノだという事ですね >>>>>一概にそうは、思いません、今は、近年起きた文化大革命で破壊された寺が、中国では、復興されており、同じような読経スタイルですね。 > >文化大革命をお調べください。 中国のお経は 中国語ではなく、パーリ語の音に中国の字をあてただけなのですよね? という事は、 見ても音は分かっても意味は分からないし、 読み上げてもパーリ語なので中国人には意味が分からないという事ですよね? それがどうして文化大革命の話につながるのか理解できません。

  • booboox
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回答No.10

この部分の回答の意図が分かりかねます>>>>物理的平等とか算術的平等とかに世の中とらわれやすいが、心の平等とは、何かを説明している具体例です。ケーキの例は、兄弟が仲が悪く、7対3程度に半分に切られても、先に相手が取るとなれば、7を取られてしまうので、必死に5対5にしようとする。逆に仲が良くて、わざと弟に大きいのをやろうとしたとき、弟は、いつも、兄が、我慢して僕に大きいのをくれるからと、遠慮して、わざと小さい方を取るかもしれません。苺が乗ったショートケーキなら、上の苺を小さい子の方に、おまけで乗せてやる兄は、多いかも。 また。ご飯の話は、小さいからだの子が、たくさん食べたらお腹を壊すし、大きいからだの子(おすもうさんを想像してください)からすれば、茶碗1杯では、少なすぎ、、、、 ですから、お互い、腹8分目なら、良いとしようと言う、満足度の平等の話です。 冷暖自知と言う言葉もありますが、おなじ温度の部屋に居ても、ある人は暑いでしょうし、ある人は寒いのです。個人差ですからね。 テキストを基に。。。と言うのは、学校ではないので、テキストが居るなら自分で見つけることです。他人に頼ってはいけないのです。 自分が信じる、、が、宗教のはじまりですから。。 拈華微笑 故事 釈迦しゃかが弟子に説法しているとき、一本の花をひねって見せたが、弟子たちはその意味を理解できず沈黙していた。ただ一人、迦葉かしょうだけが悟ってにっこりと笑った。釈迦は、迦葉が言葉で表せない仏教の奥義を理解できる者として、彼に仏法の奥義を授けた故事から。 中国語バージョン>>>>インドから伝わったお経の部分は、インドバージョンです。パーリー語が多いです。中国語ではありません。 中国で作られたお経もあります。(参同かい、宝鏡三昧など)また、日本で、その時代に合わせてつくられたお経もあります。(修正義など。。これは、明治時代にそのときの言葉で作られた) 漢字で書かれている=中国ではありません。音の口伝ですので、文字は、その国の人の音を当てたに過ぎません。 つまりは、簡単なことでも、自己主張で理解しようとすれば、難解になりやすいってことかも、しれません。 自分で、勉強するのがお経であり、長年、音の口伝が良いという経験論から、今でも残っているのでしょうね。

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質問者

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回答ありがとうございます。 >ですから、お互い、腹8分目なら、良いとしようと言う、満足度の平等の話です。 ANo.8の回答に関して、『意図』を測りかねたのですが、『意味』が分からなかった訳ではありません。 一部誤解が生じているようで、申し訳ありません。 説法を希望しているのではありませんでした。 なぜ日本の仏教の多くは教えを説くのではなく、お経を唱える事をメインにしているのか? という事が知りたいだけでしたので。 >自分が信じる、、が、宗教のはじまりですから。。 理解する事が先では無く、信じる事が先ですか、、、非常に怖ろしい世界だと再確認しました。 また、だから詐欺的であったり、暴力的であったりするカルトな宗教でさえ、妄信する人が絶えないのだと理解できました。 >漢字で書かれている=中国ではありません。音の口伝ですので、文字は、その国の人の音を当てたに過ぎません。 つまりは、中国でもお経はそのままでは見ても聞いても分からないモノだという事ですね。

  • booboox
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回答No.9

七佛通戒偈(しちぶつつうかいげ) 願諸衆生(がんしょしゅじょう)諸悪莫作。(しょあくまくさ)衆善奉行。(しゅぜんぶぎょう)自浄其意。(じじょうごい)是諸佛教。(ぜしょぶっきょう) と言うお経があります。 七佛通戒偈  願諸衆生  諸惡莫作  諸善奉行  自淨其意  是諸佛教  和南聖衆  丁 願(ねが)わくば諸(もろもろ)の衆生(しゆじよう)とともに 諸惡(しよあく)は作(な)すこと莫(な)く 諸善(しよぜん)は奉行(ぶぎよう)して 自(みずか)ら其(そ)の意(い)を淨(きよう)せん 是(こ)れ諸佛(しよぶつ)の教(おしえ)なり 聖衆(しゆじよう)に和南(わなん)したてまつる 『諸悪莫作。(しょあくまくさ)衆善奉行。(しゅぜんぶぎょう)自浄其意。(じじょうごい)是諸佛教。(ぜしょぶっきょう)』 「諸の悪を作すこと莫く、諸の善を奉行し、自ら其の意を浄くする、是れ諸佛の教えなり。」という言葉です。 宗派で共通しているということは、お釈迦様がまず教えを説かれる導入として数多くの場面で説かれたものと想像できるのではないかと思います。 七佛というのは、お釈迦様とお釈迦様の前世の佛たちを指しています。これらの七佛が共に戒めとして保持された偈文が七佛通戒偈です。偈文を現代語に直すと、「自らが悪を止め、善を行い、心を清浄に保つ、それが佛の教えである。」ということになります。 しかし、佛の保持された戒を、凡夫が頭ではなるほどと理解をしても実行することは大変困難なことです。そこでお釈迦様は、懺悔することを教えられました。人々が一心に懺悔した時、お釈迦様はただ微笑まれたといいます。それが懺悔を受けたという印でした。  では、お釈迦様のお姿を直にみることのできない、現代に生きる私たちはどうすれば良いのでしょうか。 『法華経』というお経の如来寿量品に、お釈迦様は、久遠の昔から、久遠の未来に至るまで常住しているのである、と示されているのです。それをお経では、「是の如く我れ成佛してよりこのかた甚だ久遠なり。寿命無量阿僧祇劫、常住して滅せず」といわれております。 お釈迦様は今もいらっしゃるのですから、私たちは、自分の行動をまず省みる必要があります。人々に悪となる種をまいていないか、人々のためになる善い行いをしているか、欲望の垢に心が汚れていないか、真剣に内省をした時、お釈迦様は微笑んで下さるに違いありません。 ですから私も含め、皆さんも日々の生活というご修行と同時に、普段から自分の行動や言動を内省する時間を設け、反省すべき点があるならば懺悔のための礼拝をすることが肝要であります。 私たちの日々の行動を、佛様は観ておられます。 と、今一度自分自身を見つめ直したく思います。 つまり、みんな、良いことをしましょう、悪いことは、するな!。それが、仏教の教えです。 今からでも良いから、世界中の人間、ひとりひとりが、実行すれば、戦争のない世界平和がやってきます。って、お話。 これでけのことを、仏壇の前で、 しちぶつつうかいげ、(ゴーンと鐘の音) がんしょしゅじょう、しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう、(じじょうごい、ぜしょぶっきょう。 って言って、いるのですけどね。 それが、解ってって、呪文を唱えれば、ありがたや、そのとおりって思うわけで、仏教って、そんな悪いものじゃないですよ。。 ちなみに、うちへ来る坊さんは、これくらいの話はしてますけどね。。

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質問者

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回答ありがとうございます。 >それが、解ってって、呪文を唱えれば、ありがたや、そのとおりって思うわけで、仏教って、そんな悪いものじゃないですよ。。 (オカルト部分を除けば)仏教を悪いと思った事はありません。 むしろ、学ぶべきところは多いと思っているぐらいです。 でも、お経を長々と唱える事に関しては、どうも理解ができません。 そんな事する時間があるぐらいなら、少しでも教えを説いた方が良いのではないか? あるいは、日本語化したものを唱えれば、唱えると説くがニアリーイコールになるので合理的(なんでも合理的である事が正しいとは思いませんが)ではないかと思う訳です。 それになぜ中国語バージョンなのか、 中国経由で来ているからある程度仕方ないとしても、 日本語化するか、そうでなければ原典に戻ってサンスクリッド語化するかなら、 まだある程度納得できるのですが、 中国語バージョンという中途半端さが、 島谷ひとみの『パピヨン』(ジャネット・ジャクソン『Doesn't Really Matter』のカバー)を熱唱するベトナム人歌手のようなシュールさを醸し出してるように感じられます。

  • booboox
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回答No.8

そいうですね。 たとえば、幼稚園児には、ケーキが1個しかなくて、兄弟2人で、分けるには、どうしたら良いの?(園児)きっかり、半分に切る。(園児)ものさしで測る。。などなど。。。で、おしゃかさまは、どうしたでしょうね。それはね。おにいちゃんが、これで、半分って思うところで、適当に切って、弟に、先に好きな方を選べばよいよ!って言ってあげるの。それで、半分って言うんだよ!とか、おちゃわん2杯分のご飯を兄弟で2人で分けるには、おにいちゃんの腹8分が、おちゃわん1.3杯で、弟の腹8分が、0.7杯なら、それで、半分に分けたことになるんだよ!。来年、小学校へ行ったら、算数の半分を習うけど、おしゃかさまの半分って、こういうことなんだよ! とか。。いくらでも、話は出来ますが。。

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質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >たとえば、幼稚園児には、ケーキが1個しかなくて、兄弟2人で、分けるには、どうしたら良いの?(園児)きっかり、半分に切る。(園児)ものさしで測る。。などなど。。。で、おしゃかさまは、どうしたでしょうね。それはね。おにいちゃんが、これで、半分って思うところで、適当に切って、弟に、先に好きな方を選べばよいよ!って言ってあげるの。それで、半分って言うんだよ!とか、おちゃわん2杯分のご飯を兄弟で2人で分けるには、おにいちゃんの腹8分が、おちゃわん1.3杯で、弟の腹8分が、0.7杯なら、それで、半分に分けたことになるんだよ!。来年、小学校へ行ったら、算数の半分を習うけど、おしゃかさまの半分って、こういうことなんだよ! >とか。。いくらでも、話は出来ますが。。 この部分の回答の意図が分かりかねます。 私は、「日本には説法のできる人がいないのでは?」などと思っているのではなく、 「日本語化されたテキストを基に、シッダールタの教え伝える事を中心に置いた仏教がこの日本に存在するのか」と疑問に思っていました。

  • booboox
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回答No.6

この距離が、仏教を葬儀屋化させているのでしょうね。 >>>これは、あきらかに間違いです。日本の坊さんが、葬儀業化しただけで、仏教自身は、何も、葬式化していません。 タイへ行けば、いまでも、男性は、1度は出家する訳ですし、、四国のお遍路に行けば、それなりに、感じるところはあると思います。(歩き遍路が良い。車では駄目) なお、ここで、質問すれば、ちゃんと、回答がもらえるのです。宗教とは、自分が、能動的に、信じることから始まります。 あなたが、仏教を知りたいと思えば、ちゃんと、答えてくれる人は、この世に居ます。 参考URLの仏教聖典と、各お経の解説を読めば、少しはわかるでしょうし、これらの本は、日本なら山のように出版されています。質問者が読まないだけです。お経を解説した本はたくさんありますから、具体的に、何々経の意味は、何と聞けば、この本に書いてあるとおりですと答えが出て、本のこの語句の意味はと聞けば、こういう意味ですと教えてもらえるはずですよ。現に、ここで、回答がついているではありませんか。

webuser
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >あなたが、仏教を知りたいと思えば、ちゃんと、答えてくれる人は、この世に居ます。 > それは理解しています。 >参考URLの仏教聖典と、各お経の解説を読めば、少しはわかるでしょうし、これらの本は、日本なら山のように出版されています。 >質問者が読まないだけです。 >お経を解説した本はたくさんありますから、具体的に、何々経の意味は、何と聞けば、この本に書いてあるとおりですと答えが出て、本のこの語句の意味はと聞けば、こういう意味ですと教えてもらえるはずですよ。 >現に、ここで、回答がついているではありませんか。 お経の翻訳書や解説書が書店に置いているのも知っています。 一部は読んだ事もあります。 不思議なのは、 なぜ、それをベースに檀家に話をしないのか? なぜ、意味の通じない「お経」と言われる呪文のような外国の唄のようなものを長々と唱え、聞いている方にしてみれば罰ゲームのような状態を良しとしているのか? という事です。 せっかく檀家まわりしても、お経を唱え、その後少し世間話をして帰りますが、 お経を唱える時間があれば、シッダールタの教えを語ったほうが身になるのではないですか? たまに説教のような事を言う場合もありますが、お経でほぼ時間がなくなるので、ついで程度のレベルです。 もっとも、お経が終わった時点で、もう普通の人はグッタリなので、そこから長説法なんて聞けませんが。。 シッダールタの教え伝えるのに、お経って必要なの?って思うわけです。

  • aw3se4
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回答No.5

一般人です。 >なぜ日本の仏教は教えるのではなく唱えるのですか? イスラム教はコーラン(教典)をただただ読み上げますよね。(←ちょっと語弊がある) 宗教の真面目さが成り行きと結びついてこんな事になったのではないかと。つまり一般人の認識がけっこうその程度で信仰などはまた別で、ということではないかなとおもいます。

webuser
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >イスラム教はコーラン(教典)をただただ読み上げますよね。 日本語化したものをただただ読み上げてくれた方が、まだ身になるという気がします。 今までお経を聞いた回数だけ、意味の分かる言葉で読みあげてくれていたら、何か一つでもその教えを感じられたかも知れません。 お経って、ふと我に返ると、ただの罰ゲームのような感じがしてしまうんです。 その理不尽さを受け入れる事で精神修養にはなるとは思いますが、シッダールタの考えは一切伝わって来ません。

  • magga
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回答No.4

こんにちは、パーリ語の仏典を学んでいますマッガです。 大乗にはあまり詳しくないので知る範囲で回答してみようと思います。 <<どうして翻訳して教えるという発想が無いのかという事です。>> 本当ですよね。 <<経典を完全翻訳して日本語で教えを広める仏教は存在するのでしょうか?>> パーリ語の三蔵は日本語訳もされてますし、さらに解りやすく詳細に解説して生活に活かせるように工夫してとかれているものが多くありますよ。スマナサーラ長老の書籍なんかはオススメです。 <<インドで始まった時にはインドの言葉で経典が書かれたと思います。>> 難解で学の有る宗教家などしか読めない言語を使わずに当時の一般的な言語のパーリ語で記されていますね。 <<見れば、あるいは聞けばインド人は内容を理解できたのでしょうか?>> 当時は自分達の言語でしたから理解できたでしょうが、現在パーリ語は一般的に使われてないのでパーリ語を知っていないと理解できないでしょうね。しかし翻訳されたものを見れば内容は理解できるものと思いますよ。パーリ語の仏法はシンプル解りやすく語られていますからね。 <<インド仏教はお経を唱えるのでしょうか?意味の分かる教えとして口伝しているのでしょうか?日本の仏教のように一般の人には意味不明な呪文のようなものとして唱えたのでしょうか?>> インドの佐々井さんが牽引する一億人以上いると言われるアンベードカル仏教徒の現状は詳しくは知りませんが、上座部仏教同様、パーリ語の経典を参考に生きる人にとって意味の無い呪文としては唱えることはあまりないと思います。意味を理解して念じてこそ心の成長があると思います。 お役に立てば幸いです。

webuser
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ><<経典を完全翻訳して日本語で教えを広める仏教は存在するのでしょうか?>> > >パーリ語の三蔵は日本語訳もされてますし、さらに解りやすく詳細に解説して生活に活かせるように工夫してとかれているものが多くありますよ。スマナサーラ長老の書籍なんかはオススメです。 パーリ語って初めて知りました。 サンスクリッド語→ヒンディー語かと思っていました。 書店の新書コーナーに行くと、日本語訳された物も置いていますね。 翻訳本があるのは知っているのですが、それをベースに教えたり、経を読んだりする宗派ってありますかね? ><<インドで始まった時にはインドの言葉で経典が書かれたと思います。>> > >難解で学の有る宗教家などしか読めない言語を使わずに当時の一般的な言語のパーリ語で記されていますね。 なるほど、やはりそうですか。 ><<見れば、あるいは聞けばインド人は内容を理解できたのでしょうか?>> > >当時は自分達の言語でしたから理解できたでしょうが、現在パーリ語は一般的に使われてないのでパーリ語を知っていないと理解できないでしょうね。しかし翻訳されたものを見れば内容は理解できるものと思いますよ。パーリ語の仏法はシンプル解りやすく語られていますからね。 ヒンディー語版は無いのですね。 ><<インド仏教はお経を唱えるのでしょうか?意味の分かる教えとして口伝しているのでしょうか?日本の仏教のように一般の人には意味不明な呪文のようなものとして唱えたのでしょうか?>> > >インドの佐々井さんが牽引する一億人以上いると言われるアンベードカル仏教徒の現状は詳しくは知りませんが、上座部仏教同様、パーリ語の経典を参考に生きる人にとって意味の無い呪文としては唱えることはあまりないと思います。意味を理解して念じてこそ心の成長があると思います。 > なるほど。 >お役に立てば幸いです。 ご丁寧にありがとうございました。

  • booboox
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回答No.3

意味の分かる教えとして口伝しているのでしょうか? 日本の仏教のように一般の人には意味不明な呪文のようなものとして唱えるのでしょうか?>>>> これは、現在、両方行われています。 ネット上で、意味を見たければ、以下のサイトに一部が掲載されています。 http://enlighten.fc2web.com/bukkyouseiten.htm 書籍で読みたいなら、仏教伝道協会にて、日本語のみならず、世界各国の言語で、本が出来ていて、販売されています。 http://www.bdk-jp.org/ なお、当然、意味は現代語で解説してありますが、現地、インドや中国、などで、お経を聞いても、まったく同じ音声とは、似ても似つかぬものです。 日本仏教は、10の読み方、唱え方があると言われております。その一部として重要なのは、今、般若心経を読経して、韓国で、読経すれば、同じで通じます、大悲咒を中国で読めば、これまた、同じです。三帰依文をパーリー語で唱えれば、タイ国では、同じです。チベットで、サンスクリット語で観音経を読めば。まったく同じなんです。 この2000年前の釈迦のお経が、何も、紙とか、FAXやコピーの無い時代に口伝のみで、遠路日本に伝わった事実を尊ぶことは、大事です。つまり、日本で勝手に作られた偽作でないということです。いくつかのお経は中国で作られたり、日本で作られたものもありますが。。 また、お経は音と抑揚で楽しむ要素、つまり音楽的要素もあります。前に紹介した仏教聖典が、聖書とするなら、音訳の呪文のようなお経は、賛美歌のようなもので、そういう音感は、座禅をしたりするときにも、精神をリラックスする音域がふくまれていることも、科学的に証明されています、言語のお経は、古代サンスクリット語が、インドパーリー誤に訳され、中国語で、漢字を当て字され、明治時代に、当時の日本語で翻訳され、一部は、現代語訓読のお経もあります。 このように、目的に合わせて、同じお経があらゆる言語で、音読、訓読に係わらず、すでに、多数存在しますので、意味を知りたい方は意味の解説書を読み、2000年も同じお経がそのまま続いたことの奇跡的状況をありがたいと思えば、インドのことば、中国の音訳を読まれることが、大事でしょうね。どちらも、一長一短があり、両方読まれるのが、良いとおもいますし、何百回も呪文のようにお唱すると、自然に意味が理解できるので不思議なんですけどね。 葬儀の引導も、中国の漢文でした方が、おちついてありがたいと言われるかたもいれば、現代文で口語でした方が意味が解ってよいと言う人まで、現在は、2局化してます、本来、は、仏弟子となり、タイ国のように、寺に何日か生きてる間に修行して、両方を勉強すべきでしょうが、なぜか、日本人は生きてる間に寺で在家修行をしませんね。それをすれば、無料に近い状況で戒名が頂けるので、高額な戒名料など発生する訳がないのです。生きてる間に仏につかえ、修行しれば、無料で戒名はもらえるににね」。仏教を信じていないにに、無理やり死亡時にお金で戒名を買う在家の行動は解りませんね。

参考URL:
http://www.bdk-jp.org/
webuser
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 リンクは後でじっくり見たいと思います。 >その一部として重要なのは、今、般若心経を読経して、韓国で、読経すれば、同じで通じます、大悲咒を中国で読めば、これまた、同じです。三帰依文をパーリー語で唱えれば、タイ国では、同じです。チベットで、サンスクリット語で観音経を読めば。まったく同じなんです。 なるほど、それは知りませんでした。 >何百回も呪文のようにお唱すると、自然に意味が理解できるので不思議なんですけどね。 へーそれは不思議ですね。 >仏教を信じていないにに、無理やり死亡時にお金で戒名を買う在家の行動は解りませんね。 なるほど、温度差や距離が感じられますね。 かたや「日本語化していない難解な経を修行で理解しろ」 かたや「意味分からないし眠くて足が痛いがとりあえず我慢」 この距離が、仏教を葬儀屋化させているのでしょうね。

noname#106148
noname#106148
回答No.2

キリスト教のミサの、仏教版集会は全国に沢山ありますよ。 有名所で言うと想価学会などですが、お経を上げるシーンが呪文に聞こえるのでしょうか。 お経は聖歌や聖書と同一のもので、やはり集会などで勉強会があります。 宗派によって解釈は違いますが、仏陀とその弟子による為になるお話の集大成が、お経本ですね。 昔、金持ちの母親が息子を深く愛し、大切に育てたけど、その母親は死後天国に行けなかった。 理由は「お前は息子を深く愛したけれど、他人には関心を持たず、貧乏人の頼みを聞かなかった」と仏様に言われ、息子が出家し死ぬまで供養することで母親を成仏させた。 倫理観のお話など。 人食い鬼の母親は人間の子供を殺していたけれど、自分の子が病死すると悲しみ狂って仏様に蘇りを懇願する。 そこで始めて人間の母親の悲しみを理解する… など、前編日本語に翻訳された指南本があります。 お経自体は昔の古文とインドの当て字が混ざっている感じです。 「南無阿弥蛇仏」は当て字で、すべてを仏(自分の中の善)に任せます。という意味です。

webuser
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >キリスト教のミサの、仏教版集会は全国に沢山ありますよ。 >有名所で言うと想価学会などですが、 そうなのですか。 >お経を上げるシーンが呪文に聞こえるのでしょうか。 呪文と言うか、英語圏以外の国の歌のような、聞いても意味が分からないという事です。 >お経は聖歌や聖書と同一のもので、やはり集会などで勉強会があります。 聖書はホテルとかに置いてるので見た事はありますが、日本語で書いていたので読めば分かりました。 経典はそうではないですよね。 聖書にしても英語の聖書を基に勉強会するのと、日本語の聖書を基にするので会の意味が変わってくるでしょ。 前者は一語一句意味の分からないところを勉強する。 後者は理解の確認や共有になりますよね。 >昔、金持ちの母親が息子を深く愛し、大切に育てたけど、その母親は死後天国に行けなかった。 仏教に天国ってありましたっけ? >「南無阿弥蛇仏」は当て字で、すべてを仏(自分の中の善)に任せます。という意味です。 そうでしたか、、、 「シッダールタを超リスペクトします。(なので、自分では極楽に行く道が分からないから、死んだら西の裏口から連れて行って下さい)」 という意味かと思っていました。

  • julia999
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回答No.1

私は仏教従事者ではないので私的解釈ですが、 仏教には徳を積む、悟りを開くという言葉があります。 これは、古から伝わる仏教を勉強し、自分の頭と心で感じることを 目的としたものだと思います。 古い、他国の原文を読んでも語学能力がなければ意味はわかりません。 しかし日本語で書かれた仏教に関する書物は意外と販売されていて 般若心経などの意味などから、宗派の違い、成り立ちなど さまざまなことも書かれています。 私が読んだものの中には心をニュートラルにして空にすれば、新しいものを吸収できる 余裕と言うか余白が生まれることは可能性を広げることに繋がる という内容もありました。 お経は僧侶が読むお経は神様に対して読まれる一種の儀式ではないかと思います。 その内容を学び、砕いて檀家さん方にお伝えするのも 僧侶のすべきことだと私は思っています。 また一方では一般の信者が高僧や仏に対する信仰心や思いのたけを 唱える場合もあるようです。 彼らに取っては意味のない呪文ではなく、内容を把握し 信仰心に沿った形で読むものだと思います。 僧侶の説法や講演会などに足を運んでみると わかりやすい言葉で丁寧に説明してもらえるところもあると思います。

webuser
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >僧侶の説法や講演会などに足を運んでみると >わかりやすい言葉で丁寧に説明してもらえるところもあると思います。 そういう特別な集まりなどではそうなのかもしれませんが、 日常で関わる範囲では 『意味不明な言葉を唱えている僧』 と 『終わるまでじっと我慢している信者』という関係でしかありません。 理不尽な情操教育としては必要かも知れませんが、 一般の信者にシッダールタの教えは何一つ伝わらず、 葬儀のセレモニーとしてギリギリ我慢できるだけで、 それ以外の用の無い時に寄りつく事もありません。 それが普通の事のように思っていましたが、他の宗教と比較すると、何かが違うとふと疑問に思いました。