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キリスト教と仏教
キリスト教と仏教の「教え」の違いというものは、あるのでしょうか? 宗教について勉強し始めたのですが、ご存知の方おしえてください。
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両者とも多くの宗派を有する大宗教なので、宗派による違いが多々あるので細かいことを言えばきりがありません。が、それは別として・・・ 両者は全く異なる宗教です。 キリスト教は、全知全能・唯一の神を信仰の対象としています。罪ある存在である人間は、ただひたすら神の教え(命令)に従って正しい生活をしなければ、最期の審判において地獄に落される運命にあります。また、神は人間とは別次元の超越的存在であり、人間が神になるなどということは絶対にあり得ません。 仏教は、本来、仏を拝む宗教ではなく、修行することによって輪廻から解脱することを目的とする宗教です。修行の大切さを知らない凡人は、永遠に輪廻・転生を繰返し、苦しみの多い現世を無限に経験することになります。信仰の対象である仏と解脱した人間は一応区別されていますが、キリスト教のように両者を厳格に別けているわけではありません。
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- notnot
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キリスト教も仏教も、初期のオリジナルのものと現在のものとではかなり異なってます。キリスト教、仏教それぞれの中でも「教え」の違いはあります。 例えば、キリスト教でもマリア信仰や聖人信仰など、唯一神とは言えない教えもあります。聖職者のいるカソリックと、いないプロテスタントの違いもあります。 また日本の浄土真宗では、自分が何もしなくても救われて浄土に成仏します(念仏を唱える必要も浄土真宗を信じる必要も無い)。浄土真宗も親鸞の教えと現在の教団は違いますが。 まあ、そういった細かいことを抜きにすれば、キリスト教のキーワードは「原罪」、仏教は「苦しみ」だと思います。
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- jazz04
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キリスト教は神=絶対者を崇拝・崇敬する事により救いを得ることを目的としますが、仏教は基本的に自分の努力により救いを得るのを目的とします。 キリスト教においては自分はどのようにすれば神に受け入れられるかを学びますが、仏教においては、自分はどのように努力すればよいかを学びます。 キリスト教と違い、元々の成り立ちが「自分自身の努力」が全てである仏教は「他を崇拝する」行為が本来無かったので、宗教より哲学に近いものであるともいえます。
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他の方々が詳しく述べられていますが、一番の違いは、仏教には「創造神」というものがでてこない点だと思います。聖書は、まず神がいて世界を創造するところから始まるでしょう? そこから壮大な、ユダヤの民と国家の物語が展開されますよね(旧約の世界ですが)。 仏教にはそういう「世界の創造」の物語はないんじゃないかな?(仏教経典は長い歴史のあいだに膨大なものになっているので、その全貌は知りません。「スッタ・ニパータ」と言う原始経典を岩波文庫で読んだことがありますが、とても素朴な歌のようでした。) 心とか、生命の因果や輪廻を語る仏陀の見た一つの「宇宙観」のようなものがその原型ではないかと思います。(個人的な見解ですが)
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- shangyan
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キリスト教の前提は、人間は神から離れて自己中心的にしか生きられない罪人であることです。神の子であるイエス・キリストがすべての人の罪をあがなうため十字架で死に、死後復活されたことで、罪から救われ神の愛をうける道を示されたということを信じています。 仏教は、宗派によって大きく違いますが、全般的に、苦しみからの解放されることを目指す宗教と言えると思います。ブッダの教えによると、この世のすべては常に変化して無常であり、それによって苦がもたらされる(例えば病気になったり、死んだりすること、さらに死んだあとも生まれ変わってまた苦の生活にもどること)とされます。簡単に言えば、自らの修行で苦からの解放を目指す宗派と、神格化した仏を信じて念仏することによって苦から解放されることを目指す宗派があります。
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- mark-wada
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あまり専門的なお答えはできないのですが、私はこのように対比しています。 キリスト教の神は、この世界を創造した神。人が救われる条件も神が決めました。だからこの神を信仰しない限り、人は決して天国に行く事はできません。 一方、仏教ではこの世界は自然に成立しました。その世界で人が救われる法則を明らかにしたのが仏教。だから仏教と縁がなくても、自分でその法則を実践した者は極楽に行ける、あるいは輪廻から逃れられます。 つまり例えて言えば、 キリスト教は大学に入るため高校に通うという例。もし、高校に通っていない(異教徒)のに大学に入りたい(救われたい)などという者がいたら、絶対に無理、とんでもない愚か者ですね?無理矢理、高校に入学させる方が本人のためかも。 一方、仏教は大学に入るために予備校・塾に通うという例。予備校に通わなくても(仏教徒でなくても)、自分で勉強できれば大学に入れます(救われます)ね?でも予備校の先生は、独学するよりうちの予備校に通う方が良いよー!と宣伝しますね? キリスト教と仏教の布教の歴史を見れば、上のような対比ができるのでは。
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- seyber
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キリスト教の布教です。 ユダヤで、ローマ帝国の圧制に武力で反抗する運動をしていた組織の頭がキリストに、 「救済出来るなら今すぐパンを出して国民を救済してみろ。ペテン師!」こう言いました。 キリストは、「人はパンのみで生きるにあらず」 こう答えました。私は心の救済が出来る。 主婦が、「何もしていないのにローマ兵になぐられました。」こう相談すると、キリストは、こう答えたのです。 「右のほほを殴られたら、左のほほを喜んで差し出しなさい。」 「そんな事したら2倍痛いです。」 「ほほは叩けても、あなたの心までは叩けないのです。」 ユダの裏切りですが、ユダはキリストを奉り上げれば帝政ローマに対抗して独立戦争で勝てる。 こう考えていたようです。 しかし、キリストが、目指したのは心の王国でした。 その相反する思想が、ユダの裏切りに結び付いたようです。 仏教は長くなるので・・・・^^;
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みなさん、たいへん親切に教えてくださりありがとうございました。とてもよくわかりました。 ご回答感謝しております。
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