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大河時代の鎌倉
頼朝は伊豆で挙兵し鎌倉を目指すも石橋山で負け安房に落ち延びいずれ鎌倉に入るわけですが、まずこの時代の鎌倉は誰の所領で誰が治めてるのでしょうか?
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- nururian
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鎌倉周辺の鎌倉郡には、坂東八平氏に数えられる鎌倉氏が住みついて本拠地にしていました。 鎌倉氏の子孫が、大庭、梶原、長尾などで、鎌倉党と呼ばれ開発地を荘園としていました。 彼らの先祖である鎌倉権五郎は、頼朝の先祖である源義家に属して後三年の役で活躍しています。 狭義の「鎌倉」である郡の中心の鎌倉郷は国衙領でしたが、頼朝の先祖の源頼義が拠点を設けて再開発をしたり、国司と組んだ頼朝の父義朝が相模制圧の拠点とした源氏ゆかりの場所です。だから頼朝は鎌倉にこだわっているのです。 ちなみに、父義朝は大庭御厨(伊勢神宮の荘園)に三浦氏などど攻め込んで、大場景義、景親(國村隼)兄弟を屈服させ家臣にしています。兄弟は保元の乱に参戦し、兄の景義は源為朝の強弓で足を射抜かれて歩行困難となったので家督を弟の景親に譲って隠居しました。 景親は、平治の乱による源義朝没落後は平家に近づき、相模国の平家の出先機関のような役割を果たしました。そして、義朝の家人であった三浦や中村、波多野などを圧迫したので恨まれたのです。
- fujic-1990
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武家政権(鎌倉幕府)が成立するまで、従五位くらいの下級貴族が受領として名目的に「相模国々司」として、鎌倉を含む相模を支配していたはずですね。 平安時代末期のあの時代、危ない任地へ赴いたかどうかさえ怪しいと思います。適当な武家に委任していたのではないか、と思います。大河で最初に征伐された武士、なんと言いましたっけ、あの武士あたりに代理権を与えていたのではないでしょうか。 念のため、相模国司についてウィキを見ていたら、ほとんどが藤原姓の貴族でした。ダレを使っていたかまでは書いていませんでした。 「相模介」あたりで探せば解ったでしょうか、たぶん頻繁に替えられウィキと雖も探すのは無理と思うので、探す気にはなりませんでした。
お礼
うーむ具体的な武士の名は判明しませんか(´・ω・`) 要塞都市で義朝ゆかりの要地として平家が信頼置ける武士に任せたはずと思うのですが、全く話題に乗らず不思議です。 迎え入れるもの無しに敵地であるならあの要塞都市に入れるわけもなし、とはいえ平氏が反乱分子を鎌倉に置くわけもなくよくわかりませぬ(´・ω・`)
- oska2
- ベストアンサー率44% (2301/5116)
>この時代の鎌倉は誰の所領で誰が治めてるのでしょうか? (中央の「藤原一族の独裁」を嫌った)貴族と地元の豪族が、各地を支配下に収めていました。 遠い昔に、「国司」として貴族が全国各地に派遣されrましたよね。 関東・東北に派遣された貴族は「派遣先で勢力を伸ばし、帰国しなかった」様です。 桓武平氏の「平将門」も、先祖が派遣されて土着した武家ですよね。 つまり、公的な所領でなく「各豪族・武家が独自に支配」していた様です。 実際、鎌倉幕府は「西(日本)は天皇が支配し、東(日本)は武家が支配する」計画を持っていました。 この考え方は、室町幕府も引き継ぎます。 将軍家は、西日本を支配。鎌倉公方は、関東・東北を支配。 ※この鎌倉公方から、江戸時代に「喜連川藩5000石」が誕生します。 ※5000石しかありませんが、家康から藩に準じる格式を与えられた。
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うーむ具体的な武士の名は判明しませんか(´・ω・`) 要塞都市で義朝ゆかりの要地として平家が信頼置ける武士に任せたはずと思うのですが、全く話題に乗らず不思議です。 迎え入れるもの無しに敵地であるならあの要塞都市に入れるわけもなし、とはいえ平氏が反乱分子を鎌倉に置くわけもなくよくわかりませぬ(´・ω・`)
お礼
義朝亡きあと、頼朝挙兵までの間がよくわからないですよねえ。 要塞都市で義朝ゆかりの要地として平家が信頼置ける武士に任せたはずと思うのですが、全く話題に乗らず不思議です。 迎え入れるもの無しに敵地であるならあの要塞都市に入れるわけもなし、とはいえ平氏が反乱分子を鎌倉に置くわけもなくよくわかりませぬ(´・ω・`)