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源氏・鎌倉
- 源氏・鎌倉のタイトルをどのように付けるのか分からなかったので、とりあえず、「源氏・鎌倉」としました。
- 鎌倉幕府の創始3代(頼朝・頼家・実朝)が武士としての初めての政治だったにもかかわらず、その後の長い「武士の時代」を考えると、あまりにも「不幸な死に方(本当のところは謎ということなのですが)、あるいはスタート」という気がするのですが、これは「源氏3代が無防備だった」というのか、私のような一般庶民が心配する必要はないのですが、「日本って、そんなに危険な国なのか」というようなことを考えてしまいました。
- 源氏3代の死に方の原因は何でしょうか?背景には、「武家社会の産みの苦しみとか……あるのかなぁ」という疑問があります。義経を大切にしなかった頼朝の失敗が一因とされていますが、具体的な原因を知りたいです。
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そんなに小難しく考える必要はないと思いますよ。 古来、『頭をたたき割るよりは、頭数を勘定して物事を決めた方が良い』と気づくまで、延々と繰り返されてきた「権力闘争」に過ぎません。 頼朝の浮気などで、権力が北条からほかの族へ移ることを恐れた北条氏の巻き返しと考えれば筋は通ります。 あんなにアンタを愛して、孤立無援・四面楚歌の時に部族を引き連れて味方を決めた私(あるいは、助けた俺たち)を裏切るとは!、ということです。 「自分の権力を確立するためなら、実の弟でも殺してOK」というのは、初代将軍様自身が実践してみせたのですから、他人同士(夫婦)ならまったく問題ナシです。 「毒を食らわば皿まで」という言葉もあるように、あとは惰性。中途半端な所で止めたら、やったことを理由に後の二代や他の族に逆襲されるだけですから、最後までやり通すしかないのです。文字通り命がけの時代ですから。 規模の大小はともかく、したがって記録に残るかどうかはともかく、筋立てとしては珍しい話ではなかっただろうと思います。 余談ですが、「売家と唐様で書く三代目」という言葉があるように、続くか滅ぶかは、三代目で決まりますね。
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- Tacosan
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「義経を大切にしなかった頼朝の失敗だ」については, 頼朝にも言い分はあると思うよ. 少なくとも 義経は自分を討ちに来たので返り討ちにした という大義はたつし. あと, そもそも鎌倉幕府というか頼朝の政権が「東国武士のかついだ神輿」という点はあるからねぇ. 頼家が実権を奪われた名目はそこじゃなかったっけ. 余談だけど「武士としての初めての政治」がどこかってのも違う視点がある.
お礼
ご回答ありがとうございました。 「頼朝にも言い分はあると思うよ」……そこなのですよね。「歴史のおもしろさ」というのは。事実であれば「判官贔屓」なんて言葉は吹っ飛んでしまいますよね。(*^_^*) 「義経は自分を討ちに来たので返り討ちにした」というのは本当に興味深いですね。 『「武士としての初めての政治」がどこかってのも違う視点がある. 』……でしょうね。キーボタンを押しながら、首をひねってみたのですが、本旨ではないので、流してしまいました。もう少し歴史をさかのぼる必要があるということですか?
- tanuki4u
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不幸な死に方 ↓ その定義は? 頼朝 落馬 頼家 暗殺 実朝 暗殺 事故死 33% 同時代人として 頼家段階での13人の合議制の参加者を見る http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%90%88%E8%AD%B0%E5%88%B6 上の4人が京下りの人々で、典型的な御家人でないので、下の9人に関して。 寿命で死んだのは 安達盛長 八田知家 北条義時 三浦義澄 不明 足立遠元 4名が討たれている 梶原景時 侍所所司 → 侍所別当。播磨・美作守護 正治元年(1199年)失脚(梶原景時の変) 比企能員 信濃・上野守護 建仁3年(1203年)謀殺(比企能員の変) 北条時政 伊豆・駿河・遠江守護 元久2年(1205年)追放(牧氏事件) 和田義盛 侍所別当 建暦3年(1213年)滅亡(和田合戦) だいたい半数は、寿命でない。 この比率から考えれば、源氏三代の暗殺率 67%はそれほど驚くべき比率ではない。
お礼
ご回答ありがとうございました。 歴史をこのように、「数字で見る」という視点もあるのですね。歴史を考える上での、大変参考になりました。それにしても、「鎌倉時代」というのは、生きるか死ぬかの、大変な時代だったのですね。現代は、このOKWaveでも「死にたい」というご質問が多い時代になってきましたが、そのような人は鎌倉時代に「ワープ」させれば良いのですね。そうすれば、すぐ希望が叶いますよね。(*^_^*)
- あずき なな(@azuki-7)
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そりゃ北条氏(平氏)の恨みでしょう 頼朝(落馬) 頼家(不審死) 実朝(甥による暗殺) みんな恐らく死因は暗殺です で黒幕は北条氏でしょう 北条氏はかつて平を名乗っていました 天下を取るために源氏を消したわけですね 天下の源平交代思想はここから起因しています
お礼
ご回答ありがとうございました。 ご回答の趣旨・内容はおおむね理解できますが、北条氏(平氏であったかも知れないけれど、あるいは平氏とはいいながら、)が何故これほどのというか、異常すぎるほどの「恨み」を持続できたのか?逆に言えば、なぜ源氏3代は、政権を持つほどの実力がありながら、無防備だったのか?……そこには、何故か「恨み」だけでは説明できないものがあるのでは、政子も「恨み」だけで妻になったのか……???と思った次第です。 「天下の源平交代思想はここから起因しています 」……聞いたことがないわけではありませんが、実態を知りません。関心はありますので、改めて、質問してみたいと思います。その時に教えて下さい。
お礼
ご回答ありがとうございました。 大変わかりやすかったです。色恋沙汰というのは歴史を動かすきっかけになり得るのですね。(*^_^*)ただ、もう一つ思うのは、自己防衛ということだけではなく、やはり北条氏にも政権に対する「欲」というのがあったと思うのですが。 「余談」の部分ですが、室町幕府と江戸幕府の3代目がどうだったのかを考えるとおもしろいかも知れませんね。私の記憶では、確か両幕府とも14~15代くらい続いていますよね。