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源頼朝と鎌倉幕府について
鎌倉幕府の源氏は実質頼朝1代で潰えてしまったと思います。 頼朝の死は51歳で、鎌倉時代においては決して若くはない年齢だと思いますし、 平氏の隆盛、父や祖父の頃からの権力についての考えも知っていたと思います。 しかし死後、実権は北条家に奪われ、幕府内権力闘争が過激化していき、 室町・江戸と違い比較的短期間で幕府も終わっていまいます。 なぜ頼朝は源氏による長期安定政権を作り出せなかったのでしょうか?
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家門や譜代の家臣団が無かったから 弟たちも切り捨ててしまった以上、後は伊豆での蜂起前後に主従関係となった武士団に頼るしかなかった 逆に、鎌倉や室町の失敗を研究したからこそ徳川幕府では職制や家臣団の形成などに工夫の成果が現れたと考えるべき
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- tanuki4u
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なぜ頼朝は源氏による長期安定政権を作り出せなかったのでしょうか? 頼朝が早死して二代目が無能だったから。 平安時代後期から鎌倉中期までの、武家権力者リスト この時代はまだ、組織による統治が進んでいません。あくまでも個人のカリスマに依存します。 うまく継承できたのは奥州藤原、基衡は武力戦の勝利を得てから、秀衡は父基衡が30年近く当主であったことを受けて35歳で継承している。 また、北条泰時も承久の変での実力提示を行った上で41歳で継承、泰時の孫経時の段階では義時から38年間すでに得宗家が執権職を継いでいた。 頼朝がもしあと15年くらい存命なら源氏を棟梁と仰いだ時代が34年になり、家来が世代交代、つまり成人してからずっと源氏の家人である人間が主力層になっていたはずです。頼朝が死んだ段階では、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%90%88%E8%AD%B0%E5%88%B6 全員、頼朝が生まれながらの棟梁ではなく、頼朝を棟梁にした人間です。 藤原清衡 1087→1128 41年 ※ 基衡 23歳(武力戦あり) ※ 秀衡 35歳(基衡29年当主であった) 平清盛 1159→1181 22年 ※ 宗盛 35歳 頼朝 1180→1199 19年 ※ 頼家 18歳 北条義時 1205→1224 19年 ※ 泰時 41歳(60歳で死去) ※ 経時 19歳(泰時の孫)
お礼
回答有り難うございました。 当時の寿命などを考えると早死だとは思えませんが、ベストアンサーにさせていただいた意見からも後継者を育成できなかった。権力を自分の思うように継承できる間がなかった。ということは理解出来ました。
- izuhara
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後を継いだ若い長男頼家は、御家人への配慮を怠ってやめさせられ、殺害された。 その後を継いだ弟実朝は、それなりに政治をこなしていたけれども、甥(頼家の子)に殺された。 後継者育成不足と不慮の事故が原因というのが実際の所ではないでしょうか。 源氏将軍は三代で途絶えましたが、武士の政権鎌倉幕府という組織そのものは、北条氏のもとけっこう長い期間続いていると思います。頼朝のカリスマで成り立っていた幕府を、その死後も瓦解させず維持したのが北条氏ともいえるでしょう。
お礼
回答有り難うございました。 不慮の事故はともかく、年齢のことを考えれば後継者をなぜ育成できなかったのか。そこも疑問でした。
- mekuriya
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元々鎌倉幕府は東国武士の連合政権です。源頼朝は毛並みが良いから、将軍として担がれただけに過ぎません。元々源頼朝は河内源氏ですから、鎌倉は地盤でもなんでもないわけです。源頼朝が北条家から嫁を貰ったのは地盤でない東国に基盤を作る為だった。弱小豪族の北条氏にとっても、一発逆転の権力奪取を図る為には家格の高い河内源氏と結びつく利益はあった。 現代人は、表向きの上っ面しか見ないから、鎌倉幕府は源頼朝が開いたと思い込んでいる。それはそれで事実ではあるけれど、内実は北条氏が源頼朝を看板として利用し天下を取ったといったことなんです。鎌倉幕府を開いただけで北条氏にとっては「やあ頼朝くん、御役目ご苦労さん」といったことです。 承久の乱によって鎌倉幕府の基盤が固まってしまうと、もはや名目的にも源氏を担ぐ意味が無くなってしまった。それだけの話です。
お礼
回答有り難うございました。 であれば、そもそも頼朝に能力がなかったということになりますね。お神輿なんですから。
- shirouuda
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源頼朝は、有能だが、自前の土地と兵力をほとんど持たない軍事貴族。軍の中核は北条家の兵。軍の主力は関東の武士達。しかも、元平氏側が多い。源家累代の家臣なんてのは、フィクション。 現代に例えれば、北条社長が、元財務相エリートだが貧乏な頼朝を担いで衆議院に立候補させた。関東の社長達の絶大な支持で首相にまでなった。しかし、2代目が大したこと無いので、以降は、北条家が担いだ無能エリートを首相として、実権は北条家が握った。 徳川家康は、天下を取る前ですでに、関ヶ原に3万数千、別働隊に3万数千、合計して、7万人以上の動員力を見せつけている。その家臣達は、本当に累代の家臣が多い。(宣伝ほども忠実では無かったが) 現代に例えれば、自衛隊のトップでトヨタの51%の株主である家康が、関ヶ原選挙で大勝して首相になったようなもの。また、初期の幕閣も忠実かつ極めて有能。日本ではじめて、国産通貨が普通に流通するような社会を作ったのは、彼らなのだ。
お礼
回答有り難うございました。 「自前の土地と兵力をほとんど持たない軍事貴族。軍の中核は北条家の兵。」ここにピンときましたが、やはりそれだけ有能なはずの頼朝がなぜ幕府を作ったのに軍の権力基盤を掌握できなかったのか(しなかったのか)。疑問は深まるばかりです。
- あずき なな(@azuki-7)
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北条氏と手を組んだからでしょ ご存知の通り北条氏は平氏の出です 当然北条氏にとっちゃ頼朝は敵ですから 頼朝亡き後 政子を動かして頼家 実朝を暗殺 平氏である北条氏が実権を握るという構図 頼朝が長期安定政権を作れなかったのではなく 頼朝は平家の天下統一奪還の踏み台にされただけ
お礼
回答有り難うございました。
お礼
回答有り難うございました。 「家門や譜代の家臣団が無かったから」 最もシンプルでわかり易かったのでベストアンサーとさせて頂きます。