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鎌倉府 古河公方
鎌倉府も公方が茨城の古河と伊豆の堀越にわかれていたときがあったわけですが、その間、鎌倉の行政には権力者はいなかったのでしょうか? もぬけの殻だった?
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- tanuki4u
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回答No.1
ヨーロッパ史において、ハープスブルク家、神聖ローマ皇帝カール五世は、皇帝の居城にいることが皇帝の証ではなかった。 彼、カール五世のいるところが、宮廷であり、宮廷は移動するものであった。 これは、フランス王ルイ14世も同じ。 で、鎌倉府の主人である公方も、鎌倉にいることで鎌倉公方になったわけでなく、室町将軍から任命されて、東国10カ国を統治する人が鎌倉公方である。 鎌倉の行政(行政というのも何だが)というときには、鎌倉地区の統治と東国10カ国の統治に分けないと、質問の意味が不明になると思います。 東国10カ国の統治と考えたときには、(実行力は伴わなかったが)堀越公方なり古河公方が行っていたというのが杓子定規な回答になるかと。 で、鎌倉地区の統治となると、WIKIPEDIAから切り貼りで 1455年 留守にしていた本拠鎌倉を今川範忠により占拠され、下総国古河に入った 1493年 扇谷上杉家から養子に入った、三浦義同、三浦家当主の座と相模守護代職を手に入れた。相模中部の岡崎城(現平塚市)に拠った。 1512年 北条早雲が現在の鎌倉市大船に小田原城の支城である玉縄城を築くが、ここはもはや中世の鎌倉の境域ではない。 となるので、想像するに、扇谷上杉家が東相模に関しては上杉家が支配していたと思われます。 下記のURLでは 大きく 南関東は扇谷上杉の勢力圏としています。