ベストアンサー 梶原景季が源頼朝・義経の不仲の原因の一つ? 2011/03/30 12:35 石橋山の戦いで源頼朝を救った梶原景時、 その子である梶原景季が、 源頼朝と源義経の不仲の原因の一つと聞きましたが、 そうなのでしょうか? みんなの回答 (2) 専門家の回答 質問者が選んだベストアンサー ベストアンサー falcon42 ベストアンサー率11% (1/9) 2011/03/30 13:52 回答No.1 梶原景季は一の谷の戦いや、屋島の戦いで義経の援将として頼朝におくりこました。 しかし自分の作戦が義経に却下され、面目をつぶされた景季は頼朝に華々しい戦果を過小に評価をし報告しました。 景季は頼朝の愛臣だったので、頼朝は信じてしまいました。 そして頼朝は義経の荘園を没収し鎌倉の出入りを禁止しました。 その後、義経は有名な腰越状を発ましたが意味もなく ついには頼朝打倒の兵を揚げてしまいます 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 その他の回答 (1) noname#140269 2011/03/30 21:24 回答No.2 以下が源頼朝、源義経、梶原景季の関係です。 屋島の戦いで源氏軍勝利 → 壇ノ浦の合戦で源氏軍勝利、平家滅亡 → 戦績の著しかった源義経・梶原景季、初め20人余りは共に後白河法皇に任官された → 頼朝は「勝手に任官しやがって。鎌倉に帰って来るな」と怒る → でもなぜか景季は許された。義経は許さなかった → 頼朝は景季に「叔父の源行家を討伐せよ」と義経への伝言を託す → 義経は自分の病が癒えるまでそれは出来ないと言う → 景季はそれを頼朝に伝える → 頼朝は怒る → 義経討伐の命が出される 頼朝と義経の不仲の原因は梶原景季にもあるというのは、ちぃっと正しくないですね。梶原景季はただ頼朝と義経の伝言板役を務めただけで、勝手に頼朝が怒ったというのが明白です。義経の人気が疎ましかったのもあったと言います。策士だったわけです、頼朝という人物は。結局は自分の手を汚さず、平家を滅ぼし、鎌倉に幕府を開いたんです。そして自分の邪魔になる存在を消していったんですから。だから頼朝の後の将軍、源頼家、源為朝の3代で源氏政権が倒れたのも、頼朝の権力志向が産んだ結果とされています。 質問者 お礼 2011/03/31 12:35 梶原景季は、兄弟の伝言板役を何度か務めたのですね。 ありがとうございます。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 カテゴリ 学問・教育人文・社会科学歴史 関連するQ&A 源 義経と頼朝の間には!? 源 義経は平氏をやぶったのに源 頼朝はなぜ鎌倉に入れなかったのだろうか!? 源義経、頼朝などの苗字って? 源義経、源頼朝、平清盛、大江広元などには、北条時政たちのように苗字はなかったのでしょうか? 苗字 氏 諱 北条時政 北条 平 時政 安達泰盛 安達 藤原 泰盛 源 義経 ? 源 義経 平 清盛 ? 平 清盛 源義経 源義経と言ったら壇ノ浦の戦いが有名ですよね。でもその後は兄である源頼朝と対立し、自害したと学校で習いました。 でも、テレビなどを見てると自害せず元に逃げたという説を聞きました。他にもどのような説があるか気になるんですけど、詳しい人がいたらおしえてください。 天文学のお話。日本ではどのように考えられていた? OKWAVE コラム 源義経が壇ノ浦の戦いの捕虜を連れて鎌倉を目指した際、頼朝は、義経が頼 源義経が壇ノ浦の戦いの捕虜を連れて鎌倉を目指した際、頼朝は、義経が頼朝に無断で、後白河法皇から検非違使に任命されたことに怒り、鎌倉入りを拒みました。 これに対し、後白河法皇は、義経に、頼朝討伐の院宣を出しましたが、 これに怒った頼朝が大軍を京に向けたところ、今度は後白河法皇、頼朝に、義経討伐の院宣を出したと認識しています。 短期間のうちに、お互いを討伐するような院宣を出すことはありえるのでしょうか? ご存じの方、よろしくお願いします。 源義経! 源義経が頼朝から逃げているとき、新潟にも行ったのですか? 新潟の『新飯田村』というのは義経が付けた村の名前だというのをご存知の方、いますか? 源義経 源義経は家族思いだったと思います。 兄、頼朝に呼ばれ、兵の指揮官に任じられました。 平家を次々と攻略します。 そこに目とつけた天皇が、天皇の外敵をも倒してと官位を与えたと思います。 兄、頼朝は、棟梁だと自負していました。 余計、ねたみが出たのか、弟の義経が関東に近づいたら、そこより近づくなと、門前払いしました。 門前払いされたら、天皇に近づくと思います。 妬んだ頼朝は天皇に悪評を言い、義経を追い出しました。 義経は、今度は、東北に逃げました。 でも、妬んだ、頼朝は、東北まで攻撃し、殺しました。 もし、皆さんが、嫉妬深い、頼朝が身近にいたとします。 義経が自分ならどうしますか? 頼朝、義経、泰衡 藤原泰衡は源義経を衣川で襲撃した後、源頼朝に討たれますが、例えば義経と泰衡が協力し合っても、同じ結果になったのでしょうか??? 「IF」なのですが、義経と泰衡に、鎌倉幕府や頼朝に対抗できる、あるいは、対抗できないにしても、せめて捲土重来を期して生き延びる手段・方法があったら教えてください。 一番貧乏籤を引いたのは「泰衡」ですよね。やはりバカだったと評価すべきなのでしょうか??? 頼朝と義経 頼朝と義経の対立原因とはなんだったのでしょうか? それにいざ兄弟が相対すると義経についてきたのは弁慶ほか数名だけだったのは、義経に人望がなかったのでしょうか? 義経と頼朝は不自由なく会話ができたのでしょうか? 義経と頼朝は生い立ちが全然違うので言葉も随分違っていて,実際には会話が難しかったのではないかというようなことは考えられますか。この兄弟の不仲の原因には意思の疎通が悪かったこともありそうに思えるのですが・・・。また木曾義仲などもいかにも土着語しか話さなかったような印象ですが、当時同じ源氏といってもコミュニケーションを取るのが大変だったのではないでしょうか。 「源義経が生きていた」と言う説 東北方面に旅行するたびに、とても気になることがあるんです。 源義経は、兄である源頼朝に文治年間だかに平泉で殺害されたはずですよね。偉大なる兄弟喧嘩の末に。 平泉や遠野、八戸なんかの観光名所に行けば必ず「義経北方説」とか言う看板が立っていて、「源義経は平泉で戦死せずに蒙古に渡ってジンギスカンになった」というようなお話が書かれているんですが、あれは単なる伝説なんでしょうか? 伝説が残っている処を辿ると、確かに平泉から青森方面まで源義経の足跡が残っているらしく、その上、かの地の看板を見れば、義経が逃げる途中、各地に置いていった鎧や太刀や直筆の書状等の遺物が残っているとそうです(看板によると教育委員会のお墨付きみたいです)が、逃亡しえた可能性はありえたんでしょうか? 素人の私からすると、チンギス・ハンになったらしいと言うお話は飛躍が大きすぎる気がしますけど・・・。 チンギスハーンが源義経だとする仮説について チンギスハーンが源義経だとする仮説(俗説程度に過ぎませんが)は 義経が頼朝から逃亡するときに北海道へ逃げて アイヌ民族の助けを借りて(頼朝は征夷大将軍でアイヌ民族を攻めていたので)モンゴルへ逃げて モンゴルで将軍になって死後に子孫のフビライハーンが仇討ちで頼朝が作った鎌倉幕府を滅ぼそうとして元寇を仕掛けたってことですか? 源義経の肖像は誰が画いたものでしょう。鎌倉のサイト(↓)などに載せられ 源義経の肖像は誰が画いたものでしょう。鎌倉のサイト(↓)などに載せられているもは本人であることがかなり確実なのでしょうか。頼朝像はかなり怪しいそうですが…。 http://www.kamakura-burabura.com/jinbutyositune.htm 日本史の転換点?:赤穂浪士、池田屋事件、禁門の変に見る武士の忠義と正義 OKWAVE コラム 岐阜県にゆかりのある武士は? どなたか、岐阜県にゆかりのある武士をご存知ではありませんか?どんなことでも結構なのですが・・。 梶原景時や源義経は岐阜と関係がありますか? どなたか教えてください。 よろしくお願いいたします。 源義経の剣術 源義経といえば現在に残る逸話には創作の部分が多くありますが、 幼少の頃鞍馬山で誰かさんに剣術を習ったのはどの程度確かなことなんでしょうか? お話では鬼一法眼だとか僧正坊だとか鞍馬天狗に習ったとありますよね? 人物は誰か不明にしろ鞍馬山で剣術を習ったのでしょうか? それともそれすら確かなことはわからないのでしょうか? 源頼政は何とよばれていたか。 源頼政について調べていたら、ふと大河ドラマの義経で源頼朝が挙兵する際に頼政を○○殿と言っていたと思い出したのですが、なんて言っていたかはどうしても思い出せません。どなたか知っている人いませんか? 源義経とフビライと源氏と元 私が小学生時代、おじから、 源義経(牛若丸)が、フビライ=ハン(チンギス=ハン)だという伝説がある。 と聞いた覚えがあります。それからの数年間、学校や塾などでいろんな歴史の講義を受けましたが、どの講師もこのような伝説があるとは紹介しません。いろんな細かい歴史的雑学や考古学などを喋りたがる講師でさえもです。この伝説(考え方)は、それほど現実味がないからでしょうか?私個人としては、とても興味があり、現実味もあると思っているため、ずっと気になってます。 その理由は、 ◇教科書上、彼ら二名はほぼ同時代に活躍している。 ◇義経は、源家を追われ、北部に逃げ、その後消息不明。⇒源(頼朝)に恨みを持ってる⇒後に元寇として日本を攻める。 ◇義経は別名牛若丸と呼ばれるほどの戦いのプロ。リーダーシップにも優れていたと言われている⇒(中国に逃げたと考えて)中国をまとめる事もできた人材だと思う⇒中国をまとめ、国を元とあらためた。元?源(みなもと)も音読みすればゲン。 これらの事を考えるだけでとてもたまたまとは思えないです。フビライにしろチンギス=ハンにしろ、写真は残ってなく、絵です。本当に存在したかどうかも絶対とはいえないと思いますし。義経だからこそ、日本で受けた屈辱を晴らすために中国に渡り、元寇と言う形で日本に仕返しをしにきたのではないでしょうか?それまで日本より確実に弱かった中国が、元になったとたん、日本を脅かす(事実上日本がまけたようなもの。たまたま神風が起きただけで)武力を身につけ日本に襲ってきていますし。 国名を元としたところなんか、義経らしいと思いませんか?仕返しの心アリアリって感じで。 西行と源義経の接点 西行さんは1118年に生まれ、出家をしてから、1146年に初の奥州行き。縁者を訪ねての旅とのこと。1186年に再び、焼け落ちた東大寺大仏殿の再建を勧請するため、奥州藤原氏を訪れているらしいです。 一方、源義経は、1159年生。1187年に頼朝に追討をうけ、奥州に落ち延び、1189年に泰衡に責められて自刃したようです。 二人の人生は、保元の乱、平治の乱の後の混乱期に、場所も、京都・鎌倉・奥州、と重なっているようです。西行さんと頼朝のエピソードはいくつか残っていますが、義経との接点を何かご存知の方がおられましょうか。 頭の隅に、いつも疑問に思っていたことを思い切って質問します。 よろしくお願いします。 平治の乱後の源頼朝の少年時代疑問 素朴な疑問です 源頼朝の少年時代についてですが 平治の乱で父・義朝が 平清盛に敗れるわけですが その後、息子の頼朝は。。。? (1)何かで読んだのですが まだ当時少年ながら武将として参戦していて 囚われの身になり殺されそうになるが 清盛の義母が「死んだ息子(清盛の弟)にそっくりだから助けてあげて」 とか言い出して 結局流罪になる (2)私が子供の頃源義経の話は「牛若丸」と言う昔話としてあったのですが それによると 頼朝は今若、もしくは乙若と言うまだ幼児として登場し 母・常盤と赤ちゃんの牛若(義経)と共に雪の中を落ち延びていたが 兵士軍に捕えられたが 常盤への情(常盤は美女だった)に負けた清盛に助命されて寺に入れられた と私が読んだ限りでは2通りの描かれ方があるのですが どちらがより史実に近いのでしょうか? 義経は衣川で難を逃れたあと… 源義経は衣川の館を襲撃されますが間一髪難を逃れて北海道に渡りましたよね? もちろんモンゴルに渡ってチンギス・ハンになったってのは創作だと思いますが 義経はなぜ北海道に逃れたあと頼朝を討とうとしなかったのでしょうか? また 北海道で何をしようとしていたのでしょうか? 頼朝の考え 下記は「荘園」(伊藤俊一著)の「守護・地頭設置の勅許」の一節です。 記 頼朝は1184年8月に源範頼を大将とする軍勢を平家追討のため派遣したが、兵粮不足で行軍は困難をきわめ、ようやく翌85年正月に長門国赤間関(下関)にまで進軍したところで足止めされた。一方、源義経は後白河上皇の命で出陣し、同年2月には讃岐国屋島に置かれていた平家軍の本営を奇襲した。動揺した平家軍は海上を遁走して安芸国厳島に逃れたが、義経は水軍を味方につけて追撃し、3月には壇ノ浦に追い詰めて平家を滅ぼした。安徳天皇は平家一門と運命をともにし、三種の神器は海中に没してしまった(のちに鏡と玉は回収された)。 義経は電光石火で平家を殲滅したが、これは平家の降参と安徳天皇の保全を考えていた頼朝の構想と反するものだったようだ。それに気付かない義経は戦後の処遇に不満を募らせ、後白河上皇に頼朝討伐の宣旨を要求し、受け容れられない場合には上皇・天皇以下を引き連れて九州に下ると脅したという。義経は軍勢を募ったものの応じる武士はなく、海路九州を目指したものの、一行は暴風雨にあって散り散りになってしまった。 以上 この記述の中で、「これは平家の降参と安徳天皇の保全を考えていた頼朝の構想と反するものだったようだ。」が気になりました。著者も確定的には記述していないのですが、仮に頼朝がこのように考えていたとしたら、何故、平家の滅亡ではなく、「平家の降参」が望ましいと考えたのか???ということと「安徳天皇の保全」は頼朝にどのような利益をもたらしたのでしょうか??? 「頼朝はこのように考えていなかった」というご意見でも構いません。 注目のQ&A 「You」や「I」が入った曲といえば? 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お礼
梶原景季は、兄弟の伝言板役を何度か務めたのですね。 ありがとうございます。