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鎌倉幕府創設の功労者一族の没落・衰退・隆盛理由は?
私は日本歴史の中でも源平盛衰記の時代が特に興味深いです。 そんな中、源頼朝の挙兵から~鎌倉幕府創設~実朝暗殺以降の執権政治(5代時頼)の頃までの 主な功労者一族の中で、勢力争いや不祥事にて没落や衰退・反乱反抗・隆盛と運命を分けました。 では、何一族・どのような理由で・・・「和田・比企・安達・三浦・畠山・佐々木・大江・千葉・梶原・熊谷」家運の盛衰が起こったのでしょうか? よろしくお教えお願い申し上げます。 Q:ご存知の事例、一族のケース&理由をお教え願えませんでしょうか?
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≪前回、和田一族の場合は中途半端でしたので、改めて書きます≫ ★和田一族 1203年9月に、源頼家が北条時政打倒に失敗しました。 病気の上、家門を治めることの力量が危ぶまれるということで、政子の命により剃髪・出家させられるとともに、伊豆国修善寺に送られ、翌年そのまま世を去ったのです。 頼家の最期に関しては、「吾妻鏡」には詳細は書かれていませんが、記録や物語類によれば、病死ではなく殺されたものだということは、ほぼあきらかです。 その後1213年、実朝の治世中、最大の事件である和田合戦が起きます。 頼家の子を将軍にしようという陰謀が企てられ、関係者の処分が行われました。 この人々の中に和田義盛の子息を始め、和田一族の人間が少なからず含まれていました。 上総国伊北荘に帰り住んでいた義盛は鎌倉に参上し、実朝に訴えたところ、子息二人は許されたものの、甥の胤長は許されなかったのです。 そこで義盛は一族98人を率いて、幕府の南庭に列座し胤長の赦免を迫りましたが、今度の事件の張本人であるという理由で赦免は許されず、却って後ろ手に縛られた胤長が一族の前を通って刑吏に渡されるという恥辱を受ける形で終わってしまいました。 これが原因となって、義盛は叛意を抱くことになり、軍勢を蜂起したのです。 親戚や朋友も加わって、一時は勝敗の行方も分からないほどの激戦となりました。 しかし、和田氏とは同族に当たる三浦氏が、和田氏側に立たず、幕府側にも新たに援軍が加わったことなどによって、丸一日続いた激しい合戦は、幕府側の勝利に終わります。 義盛も討ち取られ、海路で逃れた数百の人々を除いて、和田氏とその与党は亡びました。 北条義時が、胤長をさらし者のようにして、義盛の顔をつぶして挑発したのが、この合戦の主たる原因だとの見方もあるようです。 ★畠山一族 北条時政の後妻である牧の方が、畠山重忠に謀叛の企てがあるとの讒訴をしたため、1205年6月に重忠は誅殺されました。 ★三浦一族 実朝が暗殺された後、北条氏は自己の血統につながる将軍候補者を見つけることができなかったので、朝廷に後鳥羽上皇の皇子の将軍職襲職を要請しましたが実現せず、代わりに藤原道家の子の頼経が将軍となって鎌倉に赴きます。 頼経は母方においては、頼朝の血を引いていたからです。 藤原頼経が正式に第4代将軍となるのは鎌倉に来て6年余りたった1226年のことです。 その間に、実朝の死の混乱を機に、後鳥羽上皇は討幕に踏み切り、北条義時追討の院宣を下し「承久の乱」が勃発しますが、朝廷方は敗れ去ります。 それまでの幕府の内紛の影を曳いている武士たちや、反北条的な武士たちが一掃された結果、北条氏を中心とする幕府中枢部結束はむしろ固められました。 頼経は将軍職に18年ほどいたのですが、北条経時が執権となるのに反対する勢力が存在し、その中心が将軍・頼経と言われています。 それに対し、経時は将軍権力を制限する意図を露骨に示し、1244年に頼経の6歳になる子息・頼嗣の元服と同時に、将軍職も引き継がせることにしました。 1245年、執権北条経時は黄疸を患い、一旦は軽くなったのですが、弟・時頼に譲ると間もなく死亡しました。 経時の死によって潜在していた、前将軍・頼経と執権北条氏との対立が一気に火を噴きます。 三浦一族の中でも過激派であった光村は、幼少時より頼経と親しくしていたため、頼経との間に約束があると取沙汰されていましたが三浦一族の総領である穏健派の泰村は、執権・時頼に対して陳弁に努めていました。 しかし、いよいよ一触即発の形成となってしまいます。 安達義景・泰盛らは兵を挙げ、双方の軍勢による、いわゆる「宝治合戦」へと突入しました。 結果的には、三浦勢は時頼の軍と戦い、泰村伊か総勢500余人は自殺して果てたのです。 この宝治合戦は、北条経時の執権襲職以来、顕在化した将軍側近勢力と北条得宗家勢力との対立が最終的に清算された事件であり、将軍側近勢力が一掃されたものでした。 鎌倉での合戦が終り、上総一宮の館にいた三浦泰村の妹婿である千葉秀胤ら三浦氏に与した人々の掃討が進んだため、千葉氏も没落したのでしょう。
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- technatama
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いずれも権力闘争の結果、敗北・衰退したものですが、鎌倉幕府の公式史書である「吾妻鏡」を始め、「愚管抄」「玉葉」「保暦間記」「源平盛衰記」「古今著聞集」「沙石集」など著者によって情報の把握の仕方や見方が違いますので、何が正確なのか分かりませんが、いくつか事例を挙げてみます。 特に「吾妻鏡」は権力者の側に都合よく書かれていますから、敗者の側のことはどこまでが事実かあてにならない可能性もあるでしょう。 ★梶原一族 梶原景時は、平氏の一族でしたが、石橋山の合戦で敗れた頼朝ガ山中に潜んでいた際に、平家方に属していた景時は見て見ぬふりを見逃した言われています。その後正式に頼朝に属してからは、頼朝の個人的な側近として多方面で活躍したようです。 ただ、頼朝の死によって活動の場が狭められ政権の中枢から追放されました。 その経緯は、頼朝に対して景時が讒言をしても、頼朝は心得ていてそれを取捨して対処していたのですがが、若い頼家は景時の言をそのまま受け入れたので、被害を受ける者が多く、皆が連判して景時を追い出したと言われています。 つまり有力御家人たちの反感を買ったため、訴状が頼家に提出され、その内容について頼家が是非を問うたものの景時は何も言わずに、子息・親類を連れて、所領である相模国一宮に引き下がったのです。 その後頼朝の一周忌が明けた直後に一族を伴い一宮の本拠を脱出したことで、謀叛を企てて京へ赴くのだということになって追討軍が派遣されました。 追討軍の前に、近隣の武士たちとの間で合戦になり、一族のほとんどがそこで打ち取られてしまいました。 ★比企一族 頼朝の死で長子であった頼家が家督を継承し、将軍になったものの、まだ若いだけでなく、将軍としての不適格性を指摘され、さまざまな人の訴えを直に裁断することを停止され、有力者の合議によることとなりました。 その後、重病に陥った頼家は関西38か国の地頭職を弟の千幡(実朝)に、関東28ヵ国地頭職と惣守護職を子息の一幡に譲ることになったのです。 一幡の外祖父である比企能員はこの処置に関して、実朝とそれを擁立する北条氏に対して不満を抱き、頼家を巻き込んで北条氏追討の謀議を巡らします。 だが事前に露顕し、能員は仏像供養かこつけた北条時政に招き寄せられ、その場で誅殺されたのです。 残る一族は一幡の御所に立て籠もり、政子の命で発せられた追討軍を迎え、しばらく防戦したものの、最後には館に火を放って、一幡もろともに滅亡しました。 ★和田一族 上記の後、病気が持ち直した頼家は、時政を討とうと密かに和田義盛・仁田忠常らを招集したのですが、これも露顕して失敗します。 ≪とりあえずここまでにしておきます≫
お礼
非情に詳しく分かり易くお教え戴き、心より感謝とお礼を申し上げます。 大好きな割りに、文献として調査したり、纏めたり、系統だって整理するのが苦手かつ浅学非才のため本テーマーの疑問を持ち、蟠りと痞えになっておりました。 大変、参考になりスッ~と致しました、誠にありがとうございます。 <誠に勝手、不躾なお願いですが・・・機会があれば続編をご教授賜りたく存じます>
お礼
重ねての興味深い逸話と史実を紹介戴き、誠にありがとうございます。 新聞小説のように起承転結のドラマチックさと簡潔な余韻たっぷりの解説に自然にグッツと引き込まれる思いです。 誠にありがとうございました。