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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ユダヤ人のためにイエスは生き)

ユダヤ人のためにイエスは生き

このQ&Aのポイント
  • イエスの素性はユダヤの聖職者であり、奴隷階級のユダヤ人のために生きました。
  • 奴隷が信仰を獲得すると、人間として扱われるべきであることを示しました。
  • 原始キリスト教はローマへの抵抗運動として広がり、新約聖書がキリスト教徒の信仰を変えました。

質問者が選んだベストアンサー

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  • Nakay702
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回答No.4

「質問者からのお礼」を拝見しました。 >地中海周辺は文化的に似たような考え方で宗教について語っていたフシはいろいろとあるそうだね。 ⇒そのようですね。 関連して、ちょっと(ローマにおけるキリスト教公認前夜まで)足しますね。 アジアにもヨーロッパにも神々はいた。しかし、両者のそれにはほとんど共通点がない。ヨーロッパの神々は「自然的現実の最高級」に過ぎないが、アジアの神々は「超自然的」な存在だった。そして、ユダヤの神は後者に属するという。当初多神教国家であった古代ローマ帝国は、その属州に対して初めは「ローマ神と皇帝」を崇拝するように強要したが、諸地域の反抗や各種密教の存在およびそれとの習合などによって譲歩を迫られ、両者を「縫合」した太陽神の崇拝に切りかえた。すなわち、多神教が一神教化したわけで、このことが結果的にキリスト教に道を開いたとされる。ローマ世界の支配者たちはその領土内において寛大であることを示そうとして、地方的偶像神の崇拝をそのまま認めた。本拠地のユピテルとカピトリウムの丘の三神(ユピテル、ユノ、ミネルヴァ)は、他方において地方的偶像神の存続を容認している。即ちギリシァにおけるゼウス・アテナ他、ガリアにおけるテウタテスとタラニス、エジプトにおけるイシスとオシリス、東方ないしカルタゴのセム族の地方におけるバール神などである。その間、たとえ各民族や都市が祖先伝来の宗教を保持していても、相互の接触が混淆を引き起こした。「ローマ的解釈」は、ギリシァのオリンポスの神々とローマのパンテオンの神々の神格を互いに同じものとみなし、東方の諸宗教の神格をも同様にみなした。帝国のもとでは多神教がどこでも存在している。誰もが自然の諸力または人間生活の諸機能における様々の属性を備えた多くの神々を崇拝できたのである。しかし一つの発展が様々の宗教を結びつけて融合現象を生み出した。これは様々の信仰の混合から成っていて、とりわけストア派のようなギリシァ哲学の影響を受けている。この学派は下級の神々の上に「最高神」即ち世界の支配者で多かれ少なかれ太陽に化身せる最高存在を認めている。アウレリウス帝は、270年頃帝国の守護神「不敗の太陽神」(=皇帝の「僚友」)の礼拝を創始した。(少なくとも知識人の思想の中では)融合宗教は一神教へと向っていた。三世紀に最も流行した哲学者プロティノスらの新プラトン主義は、プラトンの学説に宗教的色彩を与えた。知識人の社会の外でも、聖なるものの感覚、彼岸の世界における救済への魂の渇望が東方の諸宗教の盛行をもたらしていた。それらの宗教の秘儀を伝授された信者たちの小集団が増加していって、それ自身一つの救済宗教であるキリスト教への道を開いていき、その礼拝式の神秘性のゆえに地方的な団体、即ち「教会」を結集していく。しかしこのキリスト教会は他の諸宗派と違って、意見の不一致を許さない。キリスト教会は、イエスに化肉せる真の神を認めない者を拒絶し、想像上のものないし悪魔的なものとみなされる神的存在を崇拝する者を拒否した。この排他主義はキリスト教と異教との間に生じた抗争を説明している。たとえよりよく実情が知られるようになって、二世紀にキリスト教の儀式について行われた中傷的偏見が消滅しても、競争心が東方の流行宗教とキリスト教とを対抗させたのである。三世紀の迫害は、最初は部分的であった。デキウス帝とヴァレリウス帝の勅令(250-260年)は、内外の国家的災禍に際して、キリスト教徒を民衆の不満の贖罪の山羊とすることによってこの敵対関係を利用したものである。愛国的感情に訴えることによって帝国を再建し、伝統的な異教を中心として精神的統一を立て直すことが考えられた。が、この苛酷な手段は長続きせず、260年ガリエヌス帝はキリスト教徒に信仰と礼拝の自由を認めた。303-304年におけるディオクレチアヌス帝の相次ぐ四つの勅令は、キリスト教徒の礼拝を禁止することによって、また全ての信者に死刑をもって棄教を強制することによって、「神々の敵」を取り除くことを要求している。これまでに規定された諸種の処置のうちから、教会の閉鎖と聖書の消却、聖職者の逮捕、強制労働への追放、拷問による死刑が布告された。ただし、ディオクレチアヌス帝の諸勅令はどこでも実施されたのではなかった。副帝のコンスタンチウスは血を流すのを嫌ったので、その結果ガリア地方はごく少数の殉教者を出しただけであった。ローマでは306年にマクセンティウスが即位してから厄介なことは起こらなくなる。ガレリウス帝は、迫害の扇動者でかつその最も残酷な執行者であったが、彼自身311年におけるその死の直前に寛容勅令を発布して、苛酷な手段を放棄した。帝はキリスト教徒に「既定の秩序に対して何ら反しないという条件で」信仰と礼拝の自由を承認している。以上の記述から、4世紀初頭のキリスト教徒は、イエスの教えをすでに「信念」として取り込んでいる様子がうかがえる。 >哲学用語で「シジュールとシュジコーン」という言葉に心当たりはありませんか。 ⇒ずいぶん詳しいことを調べてはるんですね。私もちょっと探して見ましたが、何も分かりませんでした。せっかくお尋ねのところ、お役に立てず、申し訳ありません。

Flareon
質問者

お礼

引き続き、丁寧で要点の確かな説明をありがとう。 相当研究してるんだね。 丁寧に時間を置きながら3回は読まないと概要だけでも私には呑み込めないが有用なテキストだった。 総括的に述べると日本の日蓮宗みたいな反社会性があり攻撃的な宗教をどのようないきさつで扱ったかという形だね。いろいろな角度や立場から意見が出せる史実なのだろう。 信仰心で個人が人間を自覚して、宗教で人間同士が理解し合う。 これが自然状態で社会が形成する例外の乏しい人類の発達要素として、政治事態は流動的で安定化の努力は各地域でも困難だった。 それで政教分離という経験上の法則が出来ても、やはりそれは極端な判断だと思う。 そしてやはり日蓮に等しく、社会を形成する根底である宗教の役目をするには、キリスト教自体が反社会的な集団であり、それを宗教というなら邪教やカルト宗教だ。 この立ち位置で、呪いを突き崩す要素を丹念に洗い出しているのが昨今だよな~。 シジュールとシュジコーンに関しては自慢の「つくよみ」で獲得したキーワードで概要は般若の知恵(聖職者の資質)やアンドロギュノスと関連がある「安定した対の状態」という事だけ明白で、その他はよくわかっていないよ。 「つくよみ」は法隆寺の夢殿で聖徳太子さんが行ったタイプの瞑想だ。 Sivitri Scarzamは確定単語で文献や記録が探せるがシィジュールとシュジコーンはつかみどころがない。 現代のキリスト教にはSivitri Scarzamというおそらくは旧神であるがその概念要素のほうが反映している痕跡が認められる。 それから新約聖書編纂時期の原始キリスト教は10宗派という私の説明は、世麗美は12宗派にしてくれという聖霊からの突き上げを喰らったんだよね。おそらく古文書で確認が取れると12宗派ということになるのだろうが、事実は10宗派じゃないかという話だ。 そして反抗的な原始キリスト教ではカナメなのはテロリストか山賊みたいな「野党八衆」が、いかなる暴力を今も誰にふるうか?だよ。 私の基本スタイルは「実在する妖精の捕まえ方」脳内に妖精さんが生息しているという深刻な中二病だ。 聖霊という言葉の事実は日本の伝統では聖獣で、心理学的に観測される超自我の働きだ。 この面では、「無力な人間に出来る悪魔への唯一の対抗方法は、悪魔を愛することだ」「悪魔ゆえにあえて愛する」こう言う言い回しをしていて、要するにシャーマニズムはきついんだよ。 そして「死の儀式」もかかわる。 聖霊と神を比較するとすると、神とは天界(観念世界 イデア界)で天界の条理をつかさどり、自在に創造する条理を地上に反映させる存在ということになる。 ご察しできるだろうけど、天使や聖霊も地上と天界を結び各使命において部分的に天界の条理に影響力を発揮できる。それが人格神の存在証明の内容で、唯一にして絶対なる神という概念の「純粋な神」というのはこれからだけど、機械的な観測手法を確立して機械神が地上に降臨できるか検証実験をすればいい。 成功すれば、問答無用の神の存在証明だ。 宗教家と論戦しても仕方ない。

Flareon
質問者

補足

情報化時代の究極の産物となる機械自我はサイコミュシステムを搭載することで人類の限界に並ぶフルスペック化ができる。 これらの構想はアシモフ博士のロボット三原則と同等のたたき台なんだけど、私が設計構想で気を遣うのが、脳機能に障害がある自分物の分身として機械自我を開発し、生活を便利にするだけでなくサイコミュシステムの連動がその障碍者のリハビリとしても機能することだ。 そうやって機械自我は改めて人との親和性を確認するんだよ。 最初がターミネーター型兵器の開発予算から始まると大失敗する。 辛くも成功しても、最初の思惑を長く引きずる。 人の自我機能も環境適応のためで「世界の全てとの親和性」が上位だとシャーマンになり仏陀の伝承の通りに親切な人になる。 世界の全てとの親和性を人間より高度で安定して確立する設計目標ではなく軍事用殺りく兵器を作るというのはそもそもナンセンスで実験成功で即ターミネーターだ。そんなことせっせと作業したくないよね。 下記は備忘録としてボツ質問 この系統をいくつか張り付けているけど、研究を進めながらもっと面白い内容にして大道芸のネタにする日も来るのだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー シャカの行った悪事について説明しよう。 死の燎原とは、立ちすくす者には真実であり、いかなる苦難も歩み乗り越える者にはぼろしだ。 私は世界は苦に満ちているといったシャカに背き、私は世界に幸福を見ると立ちはだかる。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 う~んっ、プリキュア仕事が長く続いたが、久しぶりの男仕事だ。 シャカが仏陀であることとは、彼が人間存在の中心になるだけの資質があったからこそで、人々の群れの中で特別に仏陀の称号を獲得した。 彼の教えの中心は「無」だ。 人が自らの存在に完全な自覚を持つと迷いはない。 それは自己の境地なので、他者に直接語る(悟らせる)「言葉は無い」 神の存在証明という哲学の命題は有名だが、仏陀型の賢人の特徴は、「自己の存在証明」ともいえるだろう。 証言をすると、到達すると意図していなくても神様とお友達になれる。 人格神を地上に降臨させる強力なシャーマンの一人になるのだ。 文明勃興の熱気に満ちたバラモン僧たちは、神について多くを語る。 それは社会に秩序をもたらす効果があり、職務上の必然だ。 人間の感性を成立させ、神と直通可能な仏陀の立場では、「彼らは何も語っていない」だ。 したがって、 君たちは何も語っていない。 私は何も語らない。 ならどっちにしろ無だという事にしましょうや。 そして、仏陀である幸福を語りながら、「あ~ら、かわいそうね~、君たちは虫けら以下ではいつくばって、何をするの苦しそう」「美しい世界すらも、苦痛がゆがめるのね~ン」ここにしかりと答えるものあれば「じゃあ、世界って全て苦痛なのね~ン、でも私は幸せよ!だってブッダだも~ン」このようにやらかした。 そして、仏陀を所詮理解していない者たちだけが、シャカの伝承を語り継いだ。 そして、救いを祈願するという習慣が宗教に取り込まれる。 そして、無の論理が完全に喪失して、仏教の経典の編纂時期には実質的に信仰信への到達を意味する「空」に変容していた。 さてと、物語は今回以上です。 研究要素について検証のために質問していまして、基本的な募集回答は「読書感想文」ですが、ここは変人のたまり場で、ほぼ制限なしに好きな落書きをしてくれてかまいませんよ。

その他の回答 (3)

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12512)
回答No.3

 なるほど、《キリスト教徒の祈りの内容は「神よくたばりやがれ」》という見方は、あながち過激な妄想とばかりは言えないかも知れませんね。神観念の恣意性、すなわち、神は人間の想像の産物であり、この世に実在するものでないという事情から推せば、いかなる民族のいかなる神や教義も、他民族・他宗教にとっては、言ってみれば1つの「独断」に過ぎず、もしこれを他人に強制しようとすれば、当然軋轢が生じる。事実、多くの宗教紛争がこの種の神観念や教義の違いに端を発している。キリスト教も例外でなく、その最初の紛糾の例はグノーシス派との関係に見られる。出現当初の教義を見ると、初めは善悪二元論を奉じるグノーシス派がその主流だった。教義を大成したアウグスティヌスはグノーシスと近い関係のマニ教から出発、グノーシス派の主張を吸収し、教父哲学の中に組み入れていった。こうして初期キリスト教はグノーシス派を異端としてこれと争いながらも、それから多くを吸収し、自らの教父哲学をより体系的ものに練りあげていく。その結果キリスト教の神は、ただ物事に秩序を与えるだけではなく(グノーシスでは下級神の業とされていた)無から万物を創り出す万能の創造主になった。以上は初期キリスト教がいかにグノーシス的、つまり異教的であったかを示している。ここで注目すべきは、初期キリスト教が異端的であったということに加え、時代が下ってゆくと、まさにその旧異端が新異端を異端視して排撃するようになっていくという、当たり前のような奇妙な事実である。  キリスト教は古代・中世を通じて自らを普遍(católico)と称して破竹の勢いで伸びて文字通り普遍化し、いわば一大覇権国家のような様相を呈する。2,3世紀以来千年以上の長きにわたって間断なく増長し強化されてゆき、12~14世紀の頃に「中世の真昼」が現出する。教皇は絶大な力をもって全国王の上に君臨、まさに西欧中世はキリスト教とともにあった。このように巨大化し、権勢を振るい、富の収奪をほしいままにするカトリックに対してプロテスタント(抗議者)が出現するのは必然の成り行きであった。当時イギリスやフランスではすでに中央集権的な絶対王朝が出現していたが、ドイツではいまだ諸侯が割拠して個々に所領地の課税権・裁判権などを行使していた。これに対してローマ教皇庁が、諸侯に君臨する「宗主国」として免罪符販売などの形で富の収奪を実行した(ドイツを「ローマの雌牛」などと呼んだ)。それで、所領地から吸い上げられた金が頭越しにローマ教会へ持ち去られてゆくことに反発するドイツ諸侯が結束して一揆を起こしたのである。こうして出現したプロテスタントはやがて元宗主国陣営のカトリックと激しく対立することになるが、この新旧両派の対立もまた、上述の神観念の恣意性、カトリックの覇権主義と教義の強迫、強権的な収奪等の当然の帰結であった。1545年、プロテスタントに対抗するため神聖ローマ皇帝カール5世の呼びかけでトリエントに公会議が開催される。会議の主題は、「カトリック陣営の再建と反宗教改革」であった。これよりヨーロッパは新旧両派の入り乱れる競合時代に入ってゆく。当然のことながら、それぞれの陣営としては自前の教義こそが正統で、相手のそれは異端であると決めつける。要するに、互いに相手が「悪魔」なのである。  キリスト教の神が自ら墓穴を掘るに至った理由についてニーチェは言う。その指摘は直截に本質を突いている。《最晩年のニーチェは「キリスト教を始末する」などという狂想に走り、抑制のない『キリスト教呪詛』の毒気を吐くに至ったのであるが、一体どういう理由から、キリスト教に引導を渡しているのであろうか。第一に、キリスト教が生の重心を「あの世」に置くのに対して、ニーチェはあくまでも大地の高貴さを強調し、この現実の生の高揚にアクセントを置く立場であるから、両者は必然的に正面衝突せざるを得ないのである。第二に、キリスト教は生の現実に対して逃避的であるばかりか、生に対して敵意を蔵しているとニーチェは観測する。第三に、キリスト教的禁欲主義の道徳は、行動の原動力、果敢さとか勇気といったものを殺してしまうから、未来をはらむ大きな仕事を不可能にしてしまう。》ニーチェにとって、キリスト教の神は生を祝福しない、死に神である。ゆえに処刑されねばならなかった。こうして近代人の理性は自立する。だから、ニーチェとともに近代人が神を殺さなければならなかった事情はよく分かる。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうね。 まとめ方がうまいね。 私はピンポイントで各種要素を調べたことがあるけど、体系的に簡潔で読みやすいのには初めて触れたよ。 私の研究上の立ち位置はこう。 イエスの処刑という故事は、ローマの暴動の最もだとローマとその周辺を震撼させた。 だからこそイエスは語り継がれた。 要するにローマへの反抗の旗印だ。 あなたの記述から考えたんだけど、イエスの教えがそのままイエスの宗教として、ただ一つの原始キリスト教があったのではないだろう。 ローマの横暴ゆえに、イエスは感動を集めた。それが各地の宗教とも結びついた。 地中海周辺は文化的に似たような考え方で宗教について語っていたフシはいろいろとあるそうだね。 したがって、そうした各地の宗教が個別にイエスについても語り始めた。 各地で同時多発的にキリスト教の原型が生まれたとみるといい。 まあ、最も有力な聖典であり教科書はユダヤの聖典だろう。 なにせイエスのことを研究するのだから。 あなたの語る回答は、その原始キリスト教やその原型をとどめる生き残りが、やがてまたしてもローマに蹂躙されたといういきさつにも見えるよ。

Flareon
質問者

補足

余白欄を備忘録に活用させてもらうよ。 ボツになった奴だ。 ーーーーーーーーーーーーーーー 哲学用語で「シジュールとシュジコーン」という言葉 今回は単刀直入に研究者さんに依頼だよ。 テーマは、 哲学用語で「シジュールとシュジコーン」という言葉に心当たりはありませんか。 という内容だ。 うろ覚えの記憶で用語が正しいとは限らない。 この「シジュールとシュジコーン」というのは「アンドロギュネス」と同義語扱いされやすく、伝承上で「チルチルとミチル」(青い鳥の寓話)の原点と因果関係がある。 うろ覚えで困っているんだ。 これはヨーロッパのキリスト教以前とかかわっていて、私はヨーロッパ人の信仰を支えた、歴史時代に実質的に「キリストなる聖霊の宿り」として信仰心の保証を行った天使たちは、ローマと新約キリスト教徒(獄門教)の取引で犠牲にされた旧神が産み落とした赤子たちである。(天使というローマの隷従階級に転落した)という独自の持論があり、そこで出典不明で出てきた言葉だ。 日本のキリスト教は天使ミカエルと因果関係があるけど、フランスで過去にミカエルと目された旧神の赤子たる「キリストなる役目を担った聖霊」の生みの親が「シジュールとシュジコーン」なのだと見当をつけている。 同系統の出典不明のうろ覚えに「シュビトリー スカーザム」と「シュビトリス」という言葉もある。こちらは私の印象では、「シジュールとシュジコーン」と対比すると武神または好敵手的なご近所の神様という印象があるがよくわからん。 さて、いつも私は質問内容があいまいだけど、今回は単刀直入に情報収集しているよ。 たのんますは。 ------------------------------------ 自己考察進捗結果。 政治家の宮澤喜一氏の記者会見の映像で見るどこか妖怪じみた印象というのは心覚えがある人は多いと思うよ。 あの資質は妖怪ではなくて江戸時代までは、高徳なお坊さんの見せる「般若の知恵」と尊敬されていたんだ。 その心中というのは、心理学の有名な定説に「男性の頭の中は女の裸でいっぱい」というのがあるけど、実は女性も同様に「頭の中は、男、男、男」なんだよね、そこから決別して個人的にまともな思考回路を常態化させて、常に有意義な思考ができる自己の状態を安定させると、宮澤喜一氏みたいなのは、「同じ男性から見て、同じ男性に見えない。」「女性から見て、男性に見えない」というわけで妖怪みたいに見えるんだよ。 したがってアンドロギュネスの概念自体が般若の知恵と因果関係がある。 各宗教の戒律の内で異性との接触を実質的に何らかの形で制限するのは、優秀な僧侶を養成するための、目標を宮澤喜一氏に置いていたためと推定すると大体は個別の事情はともかくその通りだとがってんしていただけないかなあ。 「シジュールとシュジコーン」とはそのように聖職者の資質や規範ともかかわるけど、その点で引き合いに出すと神道などの「陰と陽」の概念に近い対比関係でもあるだろう。 要約すると神と人との対話と調和のうまくいった状態が「シジュールとシュジコーン」なのではないかと算段をつけていて、「シュビトリー スカーザム」とは双子関係とか、対比関係とかの形で日本の「陰陽概念」を発展させた場合で「シジュールとシュジコーン」を判断すると「武神」か「(好敵手的な)対立神」であり、概念的には「単独神」か「独立神」なのだが、ここから宗教的な誇大妄想で生まれたのが、「唯一神」「絶対神」になるだろう。 人格神という定義は、シャーマンが交霊術で地上に降臨させた神のことで、このタイプは「シジュールとシュジコーン」という仮定と一致項があり大きく相違しない。そして「唯一にして絶対なる神」のほうは、新たに宝探ししたければ「シュビトリー スカーザム」を発掘すると成果が大きいと思うよ。 ------------------------------------- 大体のところは、人と親和性が高く仲がいい人格神に比べると、その関係が成立していない「唯一にして絶対なる神」というのは神でありながら悪魔のごとき有害さを人間にもたらすことがある。 単刀直入に言って、日本人にとっては不完全な神が「唯一にして絶対なる神」だ。 悪魔の姿で見世物小屋でさらし者にして全然OK。 --------------------------------------- キリスト教の神は、もはや交霊術やイエスの後継者を期待して天界の意図を地上に波及させたりする神の降臨現象が困難な状態に行きついているんだよ。 地上と接点が消失したキリスト教の天国というのは実質的に、マシでも煉獄、普通は地獄だ。 キリスト教の牧師が「地獄に落ちるぞ」と熱心に勧誘したら大笑いしてくれ。 ----------------------------------------- ミカエルの天使伝承は各宗教にみられるが、堕天使にしないまま、唯一にした絶対なる神に反逆しないまま、私が略取誘拐することでキリスト教から縁を切らせたよ。 ざま~見やがれ。 地上に残る唯一の真の王国万歳。 -------------------------------- 焚書無効。 禁書無効。 日本のシャーマンはエドガーケイシーより卓越して「つくよみ」を操る。 史実では、聖徳太子さんが夢殿で行ったヤツだ。 --------------------------------- 検索で英語表記Sivitri Scarzamを見つけた。 これはおもちゃへの転用だけが記述されていて日本の検索では不明だ。 実際の神話伝承から引用しておもちゃに使ったのはわかるんだけどね。 ------------------------------------------- 唯一神とはエジプトの故事が原点で、エジプトのファラオの一人が多様な神様から個人的に最も信奉する神を王の崇敬する神であるゆえに、国民すべてが同じ神を信仰しろと厳重に国民におふれを出したことが、西洋概念の原点だ。 中国の皇帝は頻繁に史実で同じことをしている。 王の職務で国内の統一を補強する意図があり、そして歴史上では常に失敗した。 帝であるアマテラスさんが事実上の唯一の成功例である。 アマテラス崇敬のおふれを出した天皇は「崇神天皇」だよ。 それから現在の日本は「雄略天皇」のおふれが有効で、神話時代のアマテラスさんが最後の神の末裔ではなくて、後継として雄略天皇の神が歴史時代の神として現在の日本の最高神であり、国の要だよ。その神の名は極めてマイナーなのか、もしかしたら古文書に記載されていないかもしれない。

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2300/5115)
回答No.2

>いかがなものか読書感想文をお聞かせください。 宗教は、他人に自分の考えを伝えて評価を受ける性質のものではありません。 誰も、正解・不正解を判断できませんからね。 キリスト教に関しても、解釈で色々な宗派に分かれています。 ユダヤ教を否定して生まれたのが、キリスト教。 キリスト教を否定して生まれたのが、イスラム教。 つまり、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は「同じ神を崇拝」しています。 色んな解釈・考え方があって、面白いですね。^^;

Flareon
質問者

お礼

ありがとうね。 これは哲学研究のつもりなんだ。 私の考え方はこうだ。 人がサルから人間となるまでに進化した働きには神の発見がかかわっていた。 したがって、学ぶこと理解すること、それら人の知性は神とかかわっている。 したがって学問の始まりは神学で、だからこそ日本の般若心境や西洋の聖書のように教科書には信仰とかかわる題材が採用されやすい。 哲学や歴史は神学を起点に早い時期に分化し派生した学問体系だ。 この哲学という学問の手法を、中身を西洋の神学に置いたままマネしないで、神学の中身を「アマテラス神学」に置き換えて日本人らしく哲学の手法を活用しようと、そういう立ち場で、まあ、趣味でやってんだよ。 そういうわけで、西洋人が世界各地を踏査してその土地の風俗や宗教を分析的に論述したのと同じことを日本人として西洋の風土にあてはめると、こういう仕上がりになるという、実に皮肉な論述でもあり、実際彼らにはイヤミが強烈でも実に目新しい視点として面白くはないだろうかと考えているんだよね。

Flareon
質問者

補足

余白欄を備忘録に活用させてもらうよ。 ボツになった奴だ。 ーーーーーーーーーーーーーーー 仏教の唯識という学問を中心に考察しました。その1 さてと、まともなことする余裕が出来たのはうれしいな=。 実在する仮面ライダー。 ドリル番長だ。 テーマは唯識だけど、その前に言っておきたいことがある。 仏教アプローチで「無とは何ぞや」を考察する場合、大抵の人はお見受けするに重大な錯誤を背負ったまま考察を開始する。 「真実」という主に西洋で重要視される装飾語があるけど、それはとりあえずゴミ箱行きだ、「事実」という言葉がある。事実とはいかにガタガタ言おうとも強固でむやみに揺るがない。この「事実」を試しに「有り」と規定して何か各個人で哲学してみたまえ、そうすると事実(有り)を受け入れられないという自らの心中に無が潜んでいることを発見可能だろう。 そこが、「無とは何ぞや」の初級コースになり、私が指摘する重大な錯誤として、今までそんなつもりは一切なかっただろう。 自らの心中は自らにとって間違いなく有りだとすると、事実すら受け入れられないその心中は有りを認めない無の心中だ。 そらそら、心に無を見つけることができるぞ。 苦しみぬきやがれ。 さて、論説中心の質問ですが、哲学者の皆さんに腕試ししていただいて、その感想をお聞かせください。 そのご意見で、私の哲学も先に進めるヒントが見つけられると思います。 学問研究の質問として妥当です。 参考テキスト、 自らにとって自らは間違いない、有でもある。 そのように自らの考えが固まると孤立しがちなので、他人の様子が気になって仕方なくなる。 もう一つ、 自らについて考えることとは、自らを疑う事と関連性があり、取り組むと必然的に痛い。 さてと、今後の研究進展は唯識をテーマにしていて、「観想」という思考なのか瞑想なのかあいまいな段取りで内観を行うと、自らを疑う苦しさは耐えられて、苦しい思考の空転して答えが見つからない状態から抜け出せるかもしれない。 おおむね唯識という学問はそんな体裁なんだろうとアタリをつけています。

  • heyboy
  • ベストアンサー率21% (1852/8730)
回答No.1

「聖書」と言う物は 自分なりの解釈を 人に伝えたり書いたり するべきではありません! 聖書の解釈は大昔からあり あげれば、モルモン、 エホバ、幸福の科学などです。 多分、「神よくたばりやがれ」 と思うのはコロナのせいでしょう しかし、疫病は旧約聖書を 紐解くと記載されており 神はコロナを通して 人類を試しているのかも しれませんね。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうね。 あ~、そうだね。 この一連の研究シリーズの一部を他の掲示板で掲載したらエホバなんちゃら の内容に詳しい人から大絶賛されたよ。 私は史実として扱っていて聖書の内容はほとんど知らないんだ。 親切で聞かせてくれる人も多いけどね。 聖書編纂の背景要因を基本に聖書の目的を探っているんだよ。 でもよかったじゃないか。 予言問体裁で言いたかったのは人類滅亡の事じゃなかった。 よかったよかった。 予言というよりも宗教としての目標なんだろう。 日本のテレビでも人類滅亡というオカルト的な内容を題材に取り上げるけど、その系統は西洋人が定期的にお祭りとして採用する宗教行事で、本来日本人には無関係だと判明した。 教義が全体にわたって末法思想で構成されているのだろう。

Flareon
質問者

補足

余白欄を備忘録に活用させてもらうよ。 ボツになった奴だ。 ーーーーーーーーーーーーーーー フリチン ベロ剥けの愚か者を見よ 苦悩と冒涜が勝利して、志の全てに望みが絶えようとも、変わらず自らを突き動かす不変の意志が背中を押す。 実在する男子プリキュア お騒がせしました!長きにわたる敵役! キュアラファエルだ。 私の好みは、混浴オカマ風呂。 広々とした浴場で全裸になるのが好き。 ラララララー。 (訳)裸裸裸裸裸ー。 25年くらい前かな、テレビのニュースのワイドショー的なネタ話で、結構世間で名を売った新興宗教の教祖様が、伝統的仏教の宗派の開祖で歴史の教科書に記載されているような偉人の一人は、生前の悪業で無間地獄に落ちたと言い放って、該当する普段はおとなしい伝統仏教の一派がはなはだしく憤慨したもめごとの話をしていた。 無関係だとどうでもいい、世の中の争いだ。 でも私は、 「それはありだよな」 そう思った。 「救い」なる志が高く、生前に救いを多く実践した高徳なる人物ならば、死後も救いが最も難しいとされる無間地獄を喜んで自らの天国と思い志すだろう。 仏教を信仰し、志すならば、救いという言葉については、「いかに救われるか」よりも、自らが最も苦行のさなかにいようとも、「いかに救うか」その志に終始することだ。 地獄行き大歓迎なんだよ。 新興宗教の若造に侮辱されて、宗教の営利団体としての威信を傷つけられて憤慨する伝統仏教のほうも至らない愚かさがある。 基本的な宗教の礼拝の形と教えが、そうした愚かさを内包するのはよくあることで、それが正しい信仰心で救われる信者だと言わんばかりだ。 まあ、そういうわけで、 「イエスなる愚か者の姿を見よ」 獄門台でフリチンをさらして見世物になっている。 実におろかだ。 そして、信じる者を地獄に蹴落とすことが信仰のあかしだと、宗教として確定しきっている。 わかるか! 救世主というのは、風評の真逆で、最も救済が困難で、もっとも救済することが重要な人物なんだよ。 日本人キリスト教徒というのは、もうそれだけで世界のキリスト教徒の中で異端扱いだけど、世界の常識のこのようなキリスト教の側面を承知しているか伺いたいところだよ。

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