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「ローマの白い羽」物語第三章
- 物語第三章「ローマの白い羽」には、さまよう者の心に灯りをともすことで時の流れに気づくことがメッセージとして込められています。
- 物語は実在する男子プリキュア、キュアミカエルの活躍を描いており、彼女の使命と存在意義を感じさせます。
- ローマを舞台にした物語では、古代社会の動揺やキリスト教の興隆、そして新約聖書の意義が描かれています。
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最後にしますが 次のように説明することも出来ます。 【Q:イエスは 犠牲にされたあと 聖なるものとされたか】 ~~~~~~ https://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7460587.html 《第三項排除――犠牲を作り出す――の理論》があります。 自分たちの集まりの中から 《異質〔と見なした者〕を排除する》といううごめきについてです。 今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般経済序説』(1992)です。 この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて問います。 § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。 人は 存在としてまたその人びととの関係として 社会的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ 自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社会集団としては まちがって追い求める傾向があると。 簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむといった傾向であり むろん間違った道筋であるというものです。 一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は 社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ばしいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば うれしい。そのときややもすると この承認を 自分から 追い求めて行く傾向を持つ。たとえ一定の一人の人を除け者にしてでも。・・・ § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。 この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたらくと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つまり 承認されていると思うことがたやすくなる。 そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見なさない。こういう気難しい一面もあると言う。 § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したのもつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。 そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持とうとする。 この誰れにとっても見やすい共通の基準となるものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と言えば早い。 除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。 § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである。 追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称される。 このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は たしかに《除け者》として扱われる。 つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩序》を楽しむと言うのだそうです。 このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持っているのだと。 § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していたように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いています。 それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして わたしたちは獲得することができるとも言います。 また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんなと違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてくれるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。 非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいという欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるという行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取れる道はのこされると。 § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであるとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のことであるとも論じていました。 第三項は それがいわば見事な排除であった場合には 排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》すると言います。 人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。 それによって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと。 つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。 したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として みなであがめる。 このことを通して あらためて集団ないし社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。人びとは安心するということらしい。 たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるというからくりであるらしい。 § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まちがいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。 なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがはたらくということらしい。 前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。 反動のチカラは 出る杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項と見なしてその排除にかかる。 異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことができる。 § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか? ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会 これも じつは そのまま間違いである。 その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。 だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれは――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。 内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大なる聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこまでも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のなせるわざである。世に言う《宗教》なるものの何たる自己欺瞞 ! § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。 模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどころではない。承認されたいという欲望は おそらく強いのであって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分からない。 ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか? 話し合いによるしか道はないのではないか? 仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あくまで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。 ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があるときには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほど話し合う。 ~~~~~~~~~~~~~~~
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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では 次の説明をどうぞ。 【Q:イエスのついた大嘘】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ https://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8966288.html イエス・キリストの大嘘について どう思いますか? (あ) ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんその交渉をつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言ったのです。――これが ひとつのウソです。 (い) もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。 つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。 (う) すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなのですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです。 (え) すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。 (お)第二のウソは 神は どんな名であろうと全体として ただひとつであると言いました。それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。 (か) なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。 (き) またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。 (く) このウソによれば 人びとは 笑おうが泣こうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。 (け) しかも やがては 名の違う神どうしのケンカは もう用無しとなるはずである。そのために 大嘘をついた。イエスという男。 宗教のオシエは どうでもよい。のです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
ローマの策略でさ、 祭壇に処刑台を突き刺した「神よ死ね」という祭礼を確立して、奴隷は勝利したと歓喜した信仰したものに対するキリスト教会の、皮肉で残酷な権力掌握から始まる物語の事なんだろうさ。
補足
悪魔的で非常に不愉快なんだよ。 キリスト教徒は何も知らないで、「神よ死ね」と祈る。 高笑いて仕込んだローマ公認だったんだろうね。 本来の原始キリスト教にはイエスを追悼するために紀元前の葬送の儀式を継承した祈り方をしていただろう。それが、本来と真逆に反転したんだよ。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
★ (No.3補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ イエスは死んだ。 そうさね、 人は皆死ぬ。 例外はない。 この事実に目を背けて生きていることこそ、 死に続けることだ。 皆さん、死人ですよ。 死の儀式撤廃が主題で、キリスト教は重点課題どころか、できれば 避けて通りたい厄介ごとだよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆☆ 【Q:イエスとアクマ】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ https://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8444147.html キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかったのだと考え られます。 だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。 話の都合じょう悪魔という言葉を出せば 悪魔は その十字架じょうの死 の淵までは よう ついて来なかった。 それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。 イエスが何をするか その行動を追跡していた。 ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。 ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行くこと が出来なかった。 それでこそ悪魔であった。 すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。 もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在とな る。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってしまうとち ゃんと知っていた。 ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。 去って行ったイエスに度肝を抜かれた。 よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んでいた のが すべて吐き出さざるを得なくなった。 文字通り アクマは 腑抜けになったのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
その話は前にも聞いたけどよくわかんないんだよね。 伝承としてあるとすれば、他者から向けられた悪意が心理学的な客体として内包されていたという事だろう。 というか、書きながら思い出した。 2001年8月10日「滅びの宴」死に相当するというのを突き付けられて、確かにそんな大騒ぎもあった。私が悪魔と和解する過程の一つでだよ。
補足
「ローマの白い羽」はパンツ脱がしたら通称ラファエルという事らしい。ミカエルの時もそうだけど、自我存在と存在の定義が違うので明白に確認するのは同質化可能な世麗美だけで、実は私もよく知らないんだ。アンノウンコード リッチモンドスターとは別だ。そちらは背負った宿命が大きいらしくてこづっている。はっきり言って第三次世界大戦関連だ。それから別にエントリーした、ウリナルがイエスの慰霊にもっとも心を配る「イエスの乳母」であり「屈服させられた天使」とでもいうようだ。激しい中二病で疲れるよ。
- yukiyamamomo
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ドラえもんの声優が変わったとはいえ、 大晦日のドラえもんスペシャルが池上彰の番組に片野は ショックというか、池上彰はドラえもん波なのだろうかと まあ凄い人なのでしょうか。それだけ。 羽鳥アン徒から会下は関係ですよね。
お礼
親戚にチビがいるけど、ドラえもん人気は健在の模様だよ。 一緒にアニメを見たけど、記号的な漫画系の文法に独自のパターンがあるようだ。 漫画は絵だと考えるといけなくて、へのへのもへじを書くと人の顔に見えるのと同じことで、文法を理解しないと読めない象形文字だと考えているよ。
補足
ローマ教会の様式は、ローマ帝国時代に現在だと明白な手品で、キリスト教承認が、キリスト教徒に神を呪わせる礼拝様式を定着させた政治的なことだよ。 帝国的残忍さだ。 丸見えじゃないか。 イエスを殺し続けるのが現在も生きるローマ帝国だ。 まあいい「ローマの白い羽」よ。 解放されるだろう。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.1です。 たまたまこちらの哲学カテを覗いてちょっとじっくり読んでしまいました。 そうとう力の入った議論だったので しかしながら イエス・キリスト論 としては 一面的なものになっていると捉えました。 そして ひとことを寄せました。 ゆっくり受け留めてください。
お礼
ありがとうね。 そうだね、ゆっくりとだ。 もともと苦手なこれ系に取り組んだ心労がすごいんだよ。 「イエスは愚か者」私にはこの見解しかないよ。
補足
言っておくと、愚か者と違ってこ残酷酷な宣告に正義を確信しているんだよね。 きれいごとは大嫌いだよ。 イエスは死んだ。 そうさね、 人は皆死ぬ。 例外はない。 この事実に目を背けて生きていることこそ、 死に続けることだ。 皆さん、死人ですよ。 死の儀式撤廃が主題で、キリスト教は重点課題どころか、できれば避けて通りたい厄介ごとだよ。
- yukiyamamomo
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連日パソコンが重すぎな尾ですよ。 女子プロレスラーが死んだのがコロナウ重大なニュースらしく 全然無知な尾ですが、イルスよりも 二十二歳だそうですが 都立高校は来月から始まるようですし、 高校生レベルで推移し英領ですが、 緊急事態宣言も解除sれるゆですし、 今後の天蓋が予想できないですね。 最近は自動運転がいつごろ慈雨用かされるのkが 気になった尾ですが、まだmだ難しいのでh層化。 二つ画像を並べて右側が立ち向かうべき対称な尾でしょうか。
お礼
君の歯の食いしばり方、いつもありがとう。 ワクチンはこれが中核だ。 解毒の副作用は精神爆弾だよね。
補足
暗黒の救世主「最速の臆病者」 「黒き明星」に続き、ようやく全うした。 ガタガタ言わせる拷問で、後始末はまだしばらくかかるだろう。 ここ数年、きわめてつらかったよ。 もともと私にはこの系統に苦手意識が強いんだよ。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
横入りみたいになりますが ひとこと。 ▲ カエサルのものはカエサルに 神のものは神に。 ☆ という視点が 抜けています。よ。 つまり カエサル関係のみのご議論です。
お礼
難解だからご意見は後でじっくり検討するよ。 よくぞ踏み込んできたものだよ。 私はこの掲載をした束の間、燃え尽きたようにすがすがしい。 これで全ての天使が隷従階級から解放される。 呪いとあやまちを癒す「ローマの白い羽」よ。 やあ、やあ、ここまでするキチガイは父親しかいない!
補足
5番の後ミカエルの時は「死ぬ、死ぬ~」に巻き込まれて蘇生に2年半くらいかけた。 ローマの白い羽は、ミカエル復活宣言を出した昨年クリスマスころから半月以内くらいにエントリーしてきた。ウリナルも同時期でアイツはみっともなかった。 リッチモンドスターは係争歴7~8年くらいになるかな。一番縁が深く世麗美はリッチモンドスターの仕事の肩代わりもしたことがあるんだよ。
お礼
「イエスは愚か者」「猫マタギ」これが私の立ち位置でキリスト教徒ではないんだ。 というか極めて苦手意識が強い。10代のころからだ。 でも、今回のあなたの仕上げ分で、総括すると信仰としてイエスにいかなる思いが傾けられていたかは、理解できる部分が多い。というよりも信じている人の中で信用できる人は今でもあなたくらいだよ。 ただし、事実という根拠に信ぴょう性がある私の見解のほうが、現代的な普通の人の「信じる」を揺さぶりやすいんだ。 毎度おなじみのSMショーだよ。
補足
イエスと悪魔のチキンレースは10年以上の付き合いであなたはそのテキストを過去にも2~3度引用した。精霊伝心バトルについてわたしも習熟していなかったし、世麗美なる存在は伝心状態でも私だけが承知していたから、人格浸食を伴う心理における客体の成立に私は無頓着だったんだ。今思うと正当な手続きで他者の心に宿らない精霊の姿をしない、他者への思いの傾け方が、内容を問わず悪意で正当な手続きで人と人とを結ぶ人間の成立とかけ離れている。2001年の滅び宴当初、何かそのイエスのチキンレースみたいなのを葛藤していたけど、臨死体験の実験で殺人罪を突き付けることで、悪意を判別していた模様だ。こういうのだと人の情動の交流だけの話題だけどね。