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キリスト教の誕生とユダヤ民族の聖典の関係
- キリスト教はユダヤ民族の聖典を奪い取り、その歴史を略奪した
- キリスト教とユダヤ教は関係があるが、異なる宗教として存在している
- ユダヤ民族の歴史とキリスト教の信仰は別のものとして捉えられている
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なんて話の長くなるテーマを… イエスキリストがいた時代にキリスト教になったわけではないと思います。 パウロの功績や後世、教会の共同体の働きによって、ユダヤ教と別離したものだと私は理解しています。 最初はユダヤ教イエス派、といったくらいのものだったのではないでしょうか。 しかし、ユダヤ教の指導者たちの反発もあって十字架にかけられるころにはユダヤ教の異端としてみられていたのではないかと思います。 イエスは略奪者ではありません。同じ神を信じていたはずのユダヤ教からはじかれたのです。 もし、当時の指導者がイエスを受け入れていたら、ユダヤ教とキリスト教は一緒になっていたかもしれませんね。 そしてイエスを十字架にかけた罪を、ユダヤ教徒に重ねることはなかったでしょう。 いまさらいってもせんないことですが、ユダヤ教徒をイエスを十字架にかけたとみるキリスト教徒がいるのは事実です。 時にイスラエルの掟を破るイエス。安息日に仕事をしてはならないという掟を破り、目の前で苦しむ病人を癒しました。 他にも様々な仕方でそれまでの慣習に逆らったりして、一部のイスラエルの民から反発を受けました。 イエスは斬新だったのです。実のない慣習や戒めよりも、人命を大切にする行いをしました。 その行いを真理とみて付き従ったのものと反発したもの、どちらも同じくユダヤ教徒であるイスラエルの民でした。 旧約には、メシア(キリスト)が現れるという預言書があり、それはイエスだと受け入れた人々がありました。それが弟子や信者たちです。そうとは認めなかった者たちが今も続く伝統的なユダヤ教徒です。 イエスも含めて神と考える、うーん、イエスを神の化身といったらわかりやすいでしょうか?三位一体の神として信仰するものをキリスト教徒とするならば、ユダヤ教徒はイエスをメシアではないと否定=神の一部を否定することになります。それは熱心なキリスト教徒にとってみれば罪深い業なのだと思います。 イエスがいたら、石を打つなと止めそうなものをね。 キリスト教がこんなに多くの信仰を集めているのは、イエスを通して神はイスラエルだけの神ではなくなったからだと思います。 パウロはギリシャ語も堪能な人物でした。その彼が異邦人へも信仰の道を開いていき、ユダヤ教と大きく違っていきました。その役割はやはり大きかったでしょう。 神はイスラエルを選びました。しかし、神の力が及ぶのは万物のすべて。小さい花にいたるまで。そう信じるのがキリスト教なのだと思います。 その存在が神と人々の結びつきを強めたメシア……キリスト(メシアと同じ意味です。油を注がれたもの。聖霊…神の力とともにあるもの)としてイエスが多くの信仰を集めることは、私にとってなんら不思議には感じません。 私自身ずいぶんと学びから遠ざかっているので、理解と解釈に間違った内容があるかもしれません。 もう、詳しくは、『キリスト教史』(平凡社)をご覧になって! あるいは近くにキリスト教系の大学や宗教研究の熱心な大学があれば、公開講座など受講されても理解が深まると思いますよ。 その場で話を聞けるし、一番お勧めです。 蛇足 イスラムとの違いは最後の預言者についての認識の違いも大きいですよ。 イスラムでは最後の預言者はムハンマドです。イエスのことも預言者とは認めていますし、わりとイエス好きは多いです。マリア好きも。一部の学級委員長タイプのムスリムたちはお堅いかもしれませんが。 キリスト教はムハンマドを預言者とは認めていません。最後の預言者はイエスといった主張です。 ムスリムたちのいう天国も面白いですよね。死んだら美女のハーレムが得られるそうです。そうです、女性でも!それじゃ女性はうれしくないのではと思えば、女性も死んだら男性になれるそうです。あら、みんな幸せになれますね!お嫁さんも男になると思えば、旦那さんとしては複雑でしょうけど(笑)今どきは女性は美男のハーレムを築けるっていう宗派もあるみたいですけど。 信仰の形は地域によって結構ばらつきがありますしね。飲酒も厳密に禁酒しているところもあれば、神に謝って飲んでいるところも(笑) ただ、ユダヤ教もイスラム教も認めると、キリスト教徒としてはその信仰を否定されることにつながります。 その逆も同じですね。 信仰は生活にも人格形成にも密接にかかわります。その人がその人らしくあるための「何か」の一部分なのかもしれません。それを否定されることは、すべてを否定されるような気持ちがするのです。 50年信仰を深めていたとすれば、その50年分がどこかへいってしまうような、そんな空虚な気持ちになると思うのです。それが一生分であれば、その一生はいったい何だったのだと受け入れるのは容易ではありません。 自己を否定しないために、他宗教を受け入れられないといったことがあるのだと思います。 ……まあ、それと相手を害することは別なので、いつか神の導きがあるように祈っていればいいと思いますけどね。 長文失礼しました。
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- kamobedanjoh
- ベストアンサー率27% (1021/3686)
旧約聖書はユダヤ教の聖典。 キリスト教も造物主崇拝のためにこれを借用。キリストは自身を神の使い「救世主」と位置づけて布教に努めました。世の終わり、仏教にも共通の末世思想の一形態から、ローマ時代に人気を集めました。 「信じよ、さらば救われん。アーメン」と「南無阿弥陀仏」を唱えれば成仏できるには、共通性を感じます。 イスラムも元はユダヤ教の一派。旧約聖書をそのまま借用しています。コーランは、キリスト教で云う新約聖書のイスラム版です。 ローマに変わる新思想で地中海地域に根を張り、学問にも文明の発展にも寄与しました。 ヤキモチを焼いたのがキリスト教ローマ。十字軍を組織して、イスラム教の追放に乗り出しましたが、結局は失敗。要するに、宗教には必ず分派を生じ、その分派同士が互いに唯我独尊を競い合って対立し、遂には戦争まで起こします。 争いが絶えないのが宗教という麻薬なのです。戦争に正義など有りません。
- tanuki4u
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ノアの方舟の話を軸に考えれば、地上の生きとし生けるものはすべてノアの方舟に乗っていたものの子孫です。 日本人も例外ではありません。
お礼
みなさん回答ありがとうございます