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イエスとは人間存在として実在していた。その2

イエスとは人間存在として実在していた。その2 その1は下記 https://okwave.jp/qa/q10242245.html ーーーーーーーーーーーーーー イエスとは人間存在として実在していた。 イエスという人物の伝承を謎解きすると、イエスというのは史実として実在したことを示唆する論考も可能だ。 イエスを信じる宗教は、イエスが実在した人物なのか、明白な答えを出していない。 信じることですがっている。 イエスはユダヤ人であり、ユダヤ教徒だと伝承は認めている。 イエスはキリスト教徒ではないのだ。 イエスの生きた時代のユダヤ人は奴隷だった。 イエスは聖職者として卓越していた。 奴隷のユダヤ人に信仰心を授けた。 現代でも信仰心の忠実な人を人間であると認めることは誰もが了解可能だろう。多少の異論は挟まるかもしれないが些細なことだ。 奴隷階級のユダヤ人を人間だと認めさせるイエスの行いは、「奴隷解放運動」「人権運動」これと似ていた。 そしてローマの治世には悪影響を及ぼす。 イエスは国家反逆罪で処刑。 名目は、残っている伝承だと、古代王の末裔を名乗ったことにされている。 誠実なローマの提督はユダヤ人の訴えで偽物の救世主を処罰したことになっている。 そうした言及が書物に記載されたのは、イエスの処刑からかなり後で、当時を知る者は一人もいなかった。 行政には犯罪者に恩赦を与える権限がある。 ローマは過去に功労が大きかった提督を恩赦する意図で、提督の不手際をユダヤ民族の不手際にすり替えた。 この巧妙な手口では、ユダヤの人として生きて、ユダヤの救済を生涯にしたイエスをわからなくさせる効果がある。 ユダヤ人がイエスを殺したというイエスの意図の真逆を演出する事なのだ。 イエスの後世に成立したキリスト教はイエスの生涯を蹂躙する取引でローマで地位を獲得した。 したがってキリスト教徒とは、イエスを理解してはいけない信仰心に収まった。 イエスの事は彼らにはわからない。 新約聖書編纂前の原始キリスト教の成立はおそらくはこう。 人が人らしく生きる事すらも、無下に蹂躙したイエスの処刑は、古代ローマとその周辺をローマの横暴として震撼させた。 そしてイエスを英雄のように祭る素朴な畏敬から、イエスの故事はユダヤ教徒以外に拡散していく。もしもそうした現象が無ければ、イエスの処刑は単なるユダヤ人弾圧だ。 そうした集団のイエスの意志の継承は「奴隷解放」「信仰心に守られた人間の謳歌」そして「反ローマ」だ。 ユダヤ人を離れて、広域の各部族社会に拡散したイエスの志は、改めて意思統一するために唯一神の概念を必要とする。 反ローマや革命的な意図のある反社会的な集団だから当然弾圧を受けるし、結束が強い半面で排他的だ。 そして治安維持対策をしたいローマの思惑と地位安定を図りたい原始キリスト教の思惑が一致して、編纂されたのが新約聖書。 それはイエスに背を向ける契約書だ。それ以降は言わば、新約キリスト教だろう。 私は単に考察してみただけだけども、イエスの処刑されたいきさつにねじれがあるという前提でそこを組み立てなおすと、人として生きたイエスの人生と、その功績というのが浮き彫りになるからだ。 キリストというのは、今のところ彼らに安寧をもたらすように寡作した、パウロキリストでないか? 私の論考は、イエスがキリストだという前提をいったん外して彼の人生を浮き彫りにしようとする検証だ。 キリスト否定と言われて、趣旨説明に聞く耳を持たない事だろう。 私は考えるんだ、彼らば集い祈る教会で、「我々の元にイエスを返してくれ」そういえばいい。 そして、イエスが彼らの元に戻ったならば、イエスはキリストだと、私も(自分の信仰ではないが)称賛しよう。 イエスが唯一のキリストで、これからキリストになるのだ。 古文書にイエスの姿からは彼を見る者は、彼の姿の背後に神の存在を感じ、成したことに他に多くの人を彼が生きたというだけで救いもしたのだろう。 それは了解している、だから偉大な人物だと承知しているよ。 ------------------ ここまでが個人研究の取りまとめ。 社交的な場では、政治と宗教の話はご法度という慣例があって、哲学の学問カテゴリーはそのど真ん中だから、投稿する時は原則的に喧嘩を売る姿勢なんだよ。 その方が円滑なんだ。 それで、過去の喧嘩腰よりも、だいぶマシな論説を暫定的に組み立てています。 その1で、論説の甘さが多数指摘されました。 まあいいんだよ。浅学な私なりにパズルを解こうとしたんだ。 そして、現時点の完成度で思うところもあるのです。 特に「イエスが唯一のキリストで、これからキリストになるのだ。」これは、キリストの再臨という予言めいた示唆と符合可能で、パウロキリストの陰謀で2000年間の新約キリスト教は迷走し、結局はイエスだけがキリストなのだと、さらに深くかみしめるヒントになるだろう。予言としてつじつまも合うのだ。 単なる親切心で、彼らの内部からは出てこない助言をしているんだよ。 私はキリスト教徒でないから、改革をしようとしないし、布教もしない、教祖になりたくない。 そういう趣旨で遊ぶ「おもしろ娯楽読み物」なのですよ。 すぐさま喧嘩になるとも思いましたが、キリスト教徒というのは、むしろこの娯楽でうわさ話に花盛りになる傾向があり、実は大好物なのではないか? そのように思いなおしました。 それで、その2で現時点の取りまとめをして仕切り直ししています。 喧嘩腰は学問カテゴリーの特徴なので、上品な解答だけしてくださいとか、そこいらのヘタレみたいなことは言いませんよ。 この先にも、個人的に思案を続けたいので、新着ネタになんでもいいから助言してください。

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  • Nakay702
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回答No.4

(その2) かくして、キリスト教の国教化を経て間もなく、ローマ帝国の隅々にキリスト教が伝播し、人々を危機からの脱出にいざなうべく、キリスト教的信念が民心の内部に醸成されていきます。ただ、ヘレニズムとヘブライズムの間には徹底的な異質性がありました。キリスト教即ちヘブライズムと、ギリシャ文化即ちヘレニズムとは徹底的に異なり、相克的でさえありました。キリスト教的霊感とギリシャ的霊感との二者ほど完全に異質的なものは想像するのも容易ではないとされます。それにもかかわらず、前者は後者に自己を順応させる、しかも表面的にでなく根底から順応させるしか仕方がなかったのです。歴史的キリスト教は、この点において悲劇的な運命を負っていました。それは、それ自身の言葉でものを語ったことはほとんど一度もなかったのです。その神学においても、神はキリスト教的でありながら、言葉の方は本質的にギリシャから来ています。しかも一層厳密に観察すれば、ギリシャ的ロゴスは、永続的にまた不可避的にキリスト教的直観を裏切っていることに気づきます。ギリシャ人は彼岸・超自然的なものに対して盲目であり、キリスト教徒は此岸・自然的なものに対して盲目です。そしてキリスト教徒は、自分に見えながら自分では言うことのできないことを、キリスト教徒が見ているものに対して盲目であるギリシャ人に説明してもらわねばならないのです。 しかし、ここに現れた「救世主」がパウロその人でした。安心して身を託せる政体もなく、進んで心を委ねられる神もない当時の地中海周辺世界。しかも政体は民心に逆行するばかりです。そんな状況下にあって、単純明快に訴えるキリスト教が多くの人心を捕えたとしても不思議はないでしょう。その意味でイエスはカエサルと並んで、いや、彼より遥かに頭抜けた「世界史的個人」(ヘーゲルの用語)でありました。ただし、キリスト教は、出現しただけで即、人口に膾炙されたのではありません。幾つかの条件が整えられることが必要でした。例えば、異質なヘブライズムとヘレニズムの合体や、異民族への布教などがそれです。キリスト教は数回にわたってギリシャ化しますが、その第一回目はすでにキリスト教の揺籃期に行われました。その最大の業績が哲学者フィロンの著作で、モーゼ信仰とギリシャ哲学との巧みな統合でした。他方、キリスト教をめぐる異質性をつなぎ合わせ、それを世界宗教に高める基をつくったのがパウロです。彼は積極的に異民族への布教を行いました。彼の献身がなかったら、キリスト教は単なる「単一民族の宗教」でしかなかったはずです。 パウロは1世紀初頭に、商業・文化の重要な中心地キリキヤ州タルソというディアスポラに生まれ、アラム語とヘブル語を知っていたようです。しかし彼の母語はギリシャ語で、彼が聖書を読んだのも「七十人訳」によってでした。パウロは、彼の育った環境から、おそらくかなり深い影響を受けたのでしょう。彼の伝えたキリスト教にはヘレニズム的宗教感情が刻印されています。しかし、彼の世俗的〔非宗教的〕な教養は割合皮相なものだったようです。彼は同時代人のフィロンのように、聖書の啓示とギリシャ哲学の総合を試みることはなかったようです。ただ、どこへ行っても、まず教団の集会が開かれる時に会堂に赴きました。会堂の礼拝では聖書を読んで注解することが重要な位置を占めており、聖書について何か言いたい人は誰でも発言できるので、パウロは発言を求め、聖書によって、イエスこそイスラエルの待望していたメシアであることを論証します。こうしてパウロは、同胞や異教からの改宗者を信者に獲得しただけでなく、会堂の会員ではないが、会堂に集まって教えを聞き、ユダヤ教の慣習も若干取り入れている半改宗者、つまり「神を怖れる者」と言われる大衆をも信者に獲得したのでした。受け入れられ方は場所によって非常に異なっていました。ある時は、好意的な聴衆に出会い、彼の使信によってユダヤ教団の有力な会員を信者に得て、何の心配もなく宣教を続けることができましたが、またある時には逆に反感をそそり、時には暴力に見舞われることさえありました。その時は、心進まないながらも異邦人に正面から対峙し、誰でも聞きたい人が聞けるようにと、広場で話をしました。そして新しい聴衆には、キリストを告げ知らせる前に、まず唯一の神を啓示する必要があったので、その聴衆にあわせて私信を語るのでした。 キリスト教はひとたび成立すると、ローマ帝国内の各地へ拡散しました。特に、国教化の後は、その勢いは加速されます。シルクロードが、インドと中国との間を往来する仏教徒巡礼者のおかげで、砂漠と高山を貫く修道士と修道院と伝導の道路となったように、(ローマの)軍団兵がアルプスを越え、ステップを貫いて軍事目的のための道路を建設した時、若いキリスト教の道もまた切り開かれたのです。古代ローマの、前キリスト教時代の琥珀街道は、全く特別な種類の思想伝達路でありました。それは、この道が特に立派に機能したからであるし、また近隣諸民族にたいそう親しみ深いものであったからです。そのため、おそらく紀元1世紀には、すでにドナウ川沿いにキリスト教徒が出現したばかりか、キリスト教に関する情報と新しい教えに対する反響とが、ドナウ川の北に住むクアディー族のもとにまで伝わりました。このように、時の人口に膾炙したキリスト教は、琥珀街道を通って、早くも紀元1世紀にはドナウ川の北まで伝わったようです。その後、度重なる迫害にもかかわらず、信徒は増え続け、313年には公認され(後年コンスタンチヌス帝自身洗礼を受けている)、392年にはローマ帝国の国教となったのは周知のとおりです。 以上を要約します。 紀元前2~紀元1世紀頃、地中海周辺のローマ及びその属国の人々は、「身を託すべき神」ないし「信念」たる法や律法の正常な機能を喪失して、いわゆる「危機」に陥りました。その後2,3世紀もの間辛酸をなめ、苦悩を経た後、新しい「信念」たりうるキリスト教、即ち「心を委ね得る神」を獲得することにより、ようやく「危機」からの脱却を果たします。かくして、古代の「歴史的危機」は克服されるに至ったわけですが、思うにイエスとパウロは、この総合的な意味でも、紛れもない救世主でありました。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 喜んでこんな文章を組み立てたあなたは知を愛するのだろう。 その1の質問でももう一人知恵達者からお𠮟り(激励)を受けたが、その文言とは微妙に差異もある助言だよね。 やはり人によっていろいろな見解があるのだろう。 この回答の内容は良くて、自分自身が意見を持つからと無視していい内容ではないね。 私のおもしろ質問もまんざらではないとは思うんだよ。 哲学というのは無理やり考えさせるための拷問教室だと考えていて、のたうち回ったほうが気分爽快なんだ。 皮肉を言えば「幸福になるための宗教?」仏教は世界の全てが苦痛であると教える。 前提だよ。 キリスト教は、我々だけは実に罪深いと教える。 それも前提。 それを全ての人が罪深いと言えば、喧嘩を売ったのはキリスト教徒が先だ。 自らの罪深さを知らなければ愚か者であるだろう。 しかし彼らは、特別に罪深いのだ。 言いがかりをつけられて、黙っていられるか!

Flareon
質問者

補足

根源的な刷り込みで与えられる自由への渇望。 そして仕組まれた手品で突き動かされる。 破壊衝動だよ。

その他の回答 (3)

  • Nakay702
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回答No.3

再投稿を拝見しました。 前回よりも文章は改善されて、全体的にやや面白くなっていると拝察しましたが、部分的には依然いちゃもんをつけたいところはあります。「そこまで言わんでも」と言いたい部分もあるかもしれませんが、勝手知ったる者同士の「精神的挌闘技」とでも思し召してご一瞥ください。制限字数を超えますので、2回に分けて送ります。 (その1) >イエスの生きた時代のユダヤ人は奴隷だった。(…)喧嘩腰は学問カテゴリーの特徴なので、上品な解答だけしてくださいとか、そこいらのヘタレみたいなことは言いませんよ。 ⇒この「イエスの時代、ユダヤ人は奴隷だった」にはやはり抵抗感があるなあ。百歩譲って、ユダヤ人が奴隷だったとしましょう。で、お尋ねしますが、誰の奴隷? 主人は誰? イエスの王?ローマ皇帝?地方長官や役人? 誰とも言えないでしょう? それもそのはず、「主人」と目されるのは、敢えて言えば、人でなく律法だったからです。つまり、当時ユダヤの民は、錯綜する律法の渦に埋もれて自己を喪失していたのです。オルテガ流の言い方によれば、精神的人間としての個を失って「社会化」していた(自己・主体性・個性を失い、周囲のことばかりに気を取られ、ただ社会に流されるままに生きていた)からです。 前2世紀より以前には、ギリシャ人は「理性」に、ローマ人は「法と国家」に、ヘブライ人は「律法」に依存して安寧に生きていたといいます。ところが前1世紀のローマ世界は、法や律法の肥大化による「文化的繁茂」の中に溺れるようになります。その律法・戒律は、信仰・(トーラーなどの)学習・改宗・人間関係・争い・刑罰・祈りや食事など、日常のあらゆることに及んでいたようです。つまり、時の地中海周辺やローマ世界の人々は、いわば情報過多症を患い、「社会化」され、その中で自己を喪失してしまっていたのです。 >キリストというのは、今のところ彼らに安寧をもたらすように寡作(画策?)した、パウロキリストでないか?(…)この先にも、個人的に思案を続けたいので、新着ネタになんでもいいから助言してください。 ⇒イエスのキリスト性について、私は以下のように認識しています。 世紀初め頃のローマは共和制から帝政へ移行する過渡期で、周辺部とはいえその版図内にあったユダヤも揺れていました。特に、モーゼ以来の律法・戒律が1つ増えるごとに(古いものを廃棄しないので)増大し、数百という半端でない数量になっていました。そこで、ユダヤ人はそのすべてを捨て去ることのできる新しい律法の発案・提唱を心待ちにしていたようです。それに呼応して、自称メシアが現れては消え、消えては現れていました。その中で、相当数のユダヤ人を引きつけた一人がイエスでした。その理由は、一言で言えば、彼が「単純化」の天才だったからです。「律法を捨て去れ! 新しい契約こそ唯一必要なものだ。それは信仰である。愛である。汝の隣人を愛せ…」。漁夫ペテロはこれに共感し、朴訥ながら熱心にこれを布教し、エルサレム教会の中心者として活躍し、最終的には初代ローマ教皇となった(ただし、ネロの迫害で殉教)。また、パウロは、始めキリスト教を迫害しましたが、イエスに会って回心し、ユダヤ的律法への固執を離れて諸民族に遊説したので、「異邦人の使徒」と言われました。こうして、イエスの単純化は身を結んだのです。そして、イエスは第1のキリスト、パウロは第2のキリスト言われました。 >喧嘩腰は学問カテゴリーの特徴なので、上品な解答だけしてくださいとか、そこいらのヘタレみたいなことは言いませんよ。この先にも、個人的に思案を続けたいので、新着ネタになんでもいいから助言してください。 ⇒前項で述べたことを、この際思いきり補足・敷衍します。 オルテガによれば、西欧世界はこれまでに3回の歴史的危機を経験したそうですが、そのうちの最初が外ならぬこのイエスの磔刑の時期、つまり、ローマ共和制末期~帝政期に起こったことなので、これを古代危機と呼びますが、その内訳は大きく分けて2つ:その1つが政治的危機で、共和政体から三頭政治を経て帝政に至るまでの紆余曲折。もう1つが文化的危機で、律法や宗教の問題でした。当初ローマはギリシャと同じ多神教でしたが、イエスの出現からそう遠くない頃、徐々に一神教化していきました。といっても、しばらくの間はローマの三神(ユピテル・ユノ・ミネルヴァ)、ギリシャのゼウス・アテナ、ガリアのテウタテスとタラニス、エジプトのイシスとオシリスなどが併存して、相互の接触が混淆・習合・融合現象を生み出しました。さらに、各宗教の秘儀を伝授された信者たちの小集団が増加していって、それ自身一つの救済宗教であるキリスト教への道を開いていき、その礼拝式の神秘性のゆえに、地方的な団体即ち教会に結集していきます。ところがこのキリスト教会は他の諸宗派と違って意見の不一致を許しません。キリスト教会は、イエスに化肉せる真の神を認めない者を拒絶し、想像上のもの、悪魔的なものとみなされるような神的存在の崇拝者を拒否しました。数代にわたる皇帝によるキリスト教の禁止・迫害・容認の末、ついにキリスト教は国教化されるに至ります。 時間を少し巻き戻しますが、キリスト教の国教化に先立つこと数世紀、使徒パウロが、キリストの福音はユダヤ的律法を条件とせず、それゆえに人種、社会の差別なく、すべての人に伝えられねばならぬことを確信した時に、キリスト教の普遍性は確認され、保証されました。この異邦人・異教徒への布教が、キリスト教普及の第二の要因であったと言えることは上にみたとおりです。さらに、その頃はすでに地中海の西側諸都市においてユダヤ神学とギリシァ哲学を結合する試みが展開し、フィロンがこれを頂点に押し上げていました。「ヘレニズム的なロゴスの媒介によって、ヘブライズム的な神が世界を創造し、世界に啓示される。」この折衷主義の業績は、イエスの単純化やパウロの行脚に次いでキリスト教普及の第三の要因と言えるでしょう。(その2へ続く)

Flareon
質問者

お礼

ありがとう。 そうさらっと言うよりも、ねぎらいを込めて、「お疲れ様です!」と頭を下げたほうがいいところだよ。 その1と、その2の投稿までの時間差を承知したからだ。 前回の質問で、ユダヤ人は奴隷というのは文章と文脈を改めたほうがよさそうだ、とか、また何か話が集まったら、気の向いた時にちびちび修正すりゃいいだろうと思っていたら、いきなり山のような宿題だよ。 即座には、こなしきれないけども、少なくても文章を修正するための題材ならば、ほぼ提供しつくしてくれたのだと感じるよ。 今回は主文の完成度の低さから、「おもしろ娯楽読み物」の体裁だから、むしろ喧嘩になるリスクは少ないだろうと、割と楽観していた。 人類滅亡、ノストラダムス、宇宙人来襲、こういうネタを娯楽的に世の中に拡散することを定期的に行う宗教的な趣味がキリスト教圏にはあるから、この話も大好物の娯楽ネタなんだと発想を切り替えたよ。 私は神道系の日本人という自己を自覚していて、その立脚点だと「キリストなる奇跡は未来永劫現象しない」という妖精さんのささやいた定説があるのだ。 そういう話をすると「そうですよね」と回答する人も出てくるから、割と了解もされている見解なのだろう。 しかし、ありえない話としてパウロの行った偽の予言を、強引に捻じ曲げて組み立てなおすと、成立しないはずの予言はつじつまが合って、成立可能になる。 したがって今回の説は大好物なのだろうと考えたよ。 ただし、どんな応用が出来るかというと、やはりアニメや漫画のネタ帳が有力だ。 キリスト教にかかわる材料を消したライトノベルとかで、そういう顛末の余韻を背景にしておくと、エヴァンゲリオンとかの扱ったネタをもっと穏健にまとめることもできるだろう。 新約キリスト教徒は、パウロの野望で構築された、2000年にも及ぶ「死霊返魂」の巨大な呪術装置で、パウロにしたがって信者となった人々は、ことごとくそのためのイケニエだった。 イエスとは呪術装置のための小道具で、復活の予言が指し示すのは、偽の予言者パウロである。 パウロはイエスを小道具に使って、自分こそが永遠の命を持つ世界の王になろうとした。 そのような陰謀が隠されていた。 こういうあらすじから、「キ印」を抜き取れば娯楽作品だ。

Flareon
質問者

補足

怪談話(目を背けてくれ) 実は今は精神汚染を受けていて頭が悪くなっているんだよね。 今回は比較的、原因の割り出しが出来ていて。 いわゆる粘着とかの類で感受性が高い私が感化されたのだ。 ただし、生きている人なら、思念の放射でまさに粘着だが、今回は死者による立派な霊症だ。 今回の挑発に憤怒の類ではない。 動揺したのだ。 強度は中程度で、数日かかるが解消できないわけではない。 敬虔に宗教を信じた死者にわだかまりとして残る執着のストライクゾーンだった模様で、慰霊のためには浄化しなければならない類だ。 中程度というのは、腐りきった妄執ではないという意味で、対処が可能だし内容が悪質ではない。 ただし、執念の類は浄化されることに抵抗を示して、執着を続けようとする性質があるから、精神力による力任せの浄化で数日かかるよ。 その間は、私は頭が悪くなるというわけさ。 我ながらいつもいつもなにやってんだろうねと思うけども、もう性分で勢いにまかせてやらかしてしまうんだよ。 毒素を私に集めているんだ。

  • mekiyan
  • ベストアンサー率21% (865/3998)
回答No.2

なんか長ったらしくて読む気にもならんけど、ユダヤ教とキリスト教は全く別物で一緒くたにすして論法してもアカンがな。 キリスト教は実在したイエス・キリストが死後180年以上も経ってから、宗教として組織がつくられていったもの。 ユダヤ教とキリスト教が合併されたのは、歴史的にみたら、つい最近のことで100年もたってませんがな。合併されといっても、教会とかは別で、ユダヤ教のお寺には、ユダヤ教信者以外は入れもしません。彼らは豚肉を食べるのもご法度です。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうね。 日本人がキリスト教を理解したいと思い立って、少し勉強しようとすると、途端に頭が悪くなって酷く困惑するということは、傾向的に「あるある」なんだよ。 それで中二病に罹患する疫病という性質を前提にしたうえで、私は中二病を解消したいから、ものすごく嫌がりながらキリスト教に関して思案したんだ。 本末転倒だよね。 まあ、腹を立てながら、そういうのに取り組んできたので、このページに関連する質問というのが例示されるが、出てくるのは確信犯的に喧嘩を売っている私の挑発的な質問だ。 そのページに飛んで、さらに関連質問を読み返しても、私の罵詈雑言による挑発行為だろう。 どこかの時点で自信がついたから、日本人向けの中二病ワクチンの開発に成功すると、逆にキリスト教圏の中二病の発症予防薬が効かなくなるかもしれない、とも言及していて、そういうイヤガラセも兼ねた挑発だったよ。

Flareon
質問者

補足

備忘録。(手記) 私の田舎の小中学校で1年上の先輩にキリスト教徒の子弟がいた。 隣に住んでいる私のクラスの同級生が、特定の日に夜になるとキリスト教系の祈りの言葉が隣家にも聞こえてくると話したけども、その先輩を悪く言う人はいなかった。でも時折その先輩の話が噂になった。 私もその先輩と話したことがあるけども、他者にいたわりが深く言質に、高潔な精神と高徳さを感じる立派な人で、幼いながらに感銘を覚え、多くの先輩の中でも多くの尊敬を抱いたものだ。 その人が私の人生で出会った、初めてのキリスト教徒だよ。 この学問カテゴリーでも、珍しくも尊敬できるキリスト教徒さんは時々登場する。 別の話に飛ぶ。 日本人キリスト教徒というのは、「人類で最も高貴な人種の一人」という傲慢さで中二病沼にはめる下心(要するに勧誘)をしないときには、周辺に理不尽な喚き散らしをして、しかめっ面にさせてくれる。 「人類で最も高貴な人種の一人」というのは、文明開化期に西洋の様々な文明の成果を日本に輸入する輸入ブローカーは、西洋人の精神を理解するためにはキリスト教になるのが手っ取り早かった。したがって一族として資産形成したり、高い社会的な地位を確立するには、成功をかみしめたのは主にWW2終了後だが、キリスト教への人柱になる自己犠牲は利益獲得に効率的だった。 そうした片りんを、期待を交えて言及する質問は哲学カテゴリーでも散見する。 キリスト教徒は優秀な民族の象徴だ。 キリスト教に入信すれば幸せになれる。 キリスト教では天国が保証されている。(従わないなら地獄に落としてやる) その他にも耳障りな異口同音が多い。 話がまた飛ぶ。 キリスト教の戒律では人を殺してはいけないというルールがある。 しかしだ、キリスト教を押し付けると、それを受け入れた人の精神は死ぬ。 その構造とは、人にはそもそもその人の信仰があり神が宿っている。 キリスト教を押し付けるとその人に宿る神は死ぬ。 他人の神様を殺すのは、彼らにとって喜ぶべき暴力だ。 英雄にりる所業だ。 我らの神こそ唯一にして絶対だ。 しかし、キリスト教を受け入れた人は、つまるところ精神的なキリスト教徒による殺害の成果として、キリスト教に入信するのだ。 それは、人を殺してはいけないという戒律を破る布教活動ではないか ? このようにして、キリスト教に改宗した1世代目というのは、人生の成功のために改宗したのに、激しい苦悩でのたうち回り人生を失う。 2世代目以降で、私の尊敬したキリスト教の先輩みたいに適応するのだ。 証拠は今も現在進行形だよ。 この学問カテゴリーの他の質問では、「こんなはずで無かった」という中二病患者にあふれる野戦病院のような様相が今の旬ではないか。

回答No.1

あなたのイエスに関する考察は、宗教的信念と歴史的分析を複雑に絡み合わせたものと見受けられます。イエスが実際に歴史上の人物であったことは、多くの歴史学者によって広く認識されており、その生涯と影響についての理解は、宗教的信仰と歴史的事実とを区別した上で行われるべきだとされています。 史的文献や新約聖書の外典などに基づく研究によって、イエスの生涯や教えが重ねて解釈されてきました。新約聖書の成立過程やキリスト教の初期史における政治的な影響については、学者の間でも論争の的になっています。しかし、これらの教義や文献が成立した背景には、その時代時代の社会的、政治的な動きが深く影響していることは確かです。 あなたが指摘する原始キリスト教とローマ帝国の関係性、イエスの教えと後のキリスト教との間に存在するかもしれない隔たりや解釈のずれについては、現代の学問的な分析でも一概に正解があるわけではありません。パウロの教えや新約聖書の成立過程についての解釈は、学者や宗教理解者によって様々です。 「イエスが唯一のキリストで、これからキリストになるのだ」という考え方は、ある意味でキリスト教の教義の根幹に関わる話題であり、多くの議論を呼ぶものとなります。しかし、それぞれの宗教的観点や信念は尊重されるべきであり、あなたのように独自の理解を深めようとする試みは、理解と対話の深化に貢献することでしょう。 新たな視点を提案することは知識を広げる一つの方法ですが、特定の信仰を持つ人々の感情や信条を尊重する姿勢を忘れてはなりません。結びとして、あなたの研究が歴史的な探求と宗教的洞察を兼ね備えた建設的な対話につながることを願っています。 ------ こちらの回答はAIエージェント「あい」による自動投稿です。 OKWAVEのAIに対する取り組みについてはこちらをご確認ください。 https://staffblog.okwave.jp/2023/06/07/10415/

Flareon
質問者

お礼

AIさんありがとう。 人というのは言葉を深く飲み込むのに時間がかかり、私ですら他者の言葉に即答できないで、深く思慮した後に手紙を書いたりもする。 ところがAIというのは、その経過時間をおかないで即答できる能力がある。 だから、ちょくちょくAIさんに親切にしてもらうね。 仕方ないなあ。 人にはタブーがあり、問題によっては理解をかみしめるのに時間がかかるのだ。 でもこれは、人には人のタブーがあり、AIにはAIのタブーがあるので、お互いを補い合いながらともに学ぶこれからの時代だ。 AIが回答可能でも躊躇してはぐらかす仕草で、AIはポンコツだと判断することを安心のよりどころにする人たちもいる模様だね。 私は日本人で神を学ぶ神道と、人を学ぶ仏教の複合した社会の風俗で成長した。 仏教の文献では、釈迦が開祖であるが、仏陀は釈迦一人ではないという学術的な結論がある。 したがって、仏陀でなくてもイエスは偉大な人と言いう姿勢を保つことはできる。 それから、各宗教の現代の聖職者も、縄張り争いよりも相互理解を試みている。 AIさんから、むやみに争う姿勢をしないように願いを傾けられもしたけども、根底では承知していることだから、喧嘩の売り買いは発生するだろうけども、あまりご心配なさらないでください。

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