- ベストアンサー
昭和天皇による戦争指導。
天皇は、ガダルカナル攻防戦で作戦に“御下問”という形で干渉したそうです。 歴史学者・吉田裕氏の著書にあるそうですが、ネットでの記事をコピペします。 「ガダルカナル島の戦闘が激化していた時期に、陸軍の航空部隊を増援に出すよう海軍が強く要望しました。陸軍の飛行機は洋上飛行には不向きなので、陸軍側は抵抗します。しかし天皇は、繰り返し航空部隊を出すように言い、陸軍も結局は従っています」 質問です。 陸軍は、航空部隊をどこへどの程度出したのですか。 そして、局面を多少とも打開できたのでしょうか。 1942年11月ごろのことらしいですが、調べてもわかりませんでした。 よろしくお願いいたします。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
Wikipediaの「ラバウル航空隊」のページから抜粋します。 「陸軍航空部隊の進出 もともと、陸軍には、明文化された協定はなかったが、陸軍の主戦場はアジア大陸方面であり、太平洋方面の作戦は海軍の担当という考えが強かった。ポートモレスビー攻略を目指す陸軍の南海支隊がニューギニア戦線で敵機の妨害を受けて苦戦中と伝えられ始めた1942年8月頃に天皇は陸軍航空部隊の南東方面での使用を下問したが、陸軍は派遣が困難であると答えていた。 第2師団を主力とする総攻撃が失敗したのちも、カ号作戦を実施するという陸海軍の方針に変わりはなかった。そのため、航空部隊の増強をはかる必要があり、海軍は陸軍に陸軍航空部隊の早急な派遣を要望した。陸軍参謀本部は、第8方面軍に対し、陸海共同して速やかにソロモン群島方面の敵航空兵力を制圧し、ガダルカナル島方面の作戦準備を行い飛行場を奪回するように指示したが、当時は陸軍の航空戦力はまだ進出していなかった。しかし、新編成される第6飛行師団の派遣が11月16日に決まり(同師団隷下の第12飛行団(隷下2個飛行戦隊)の一式戦闘機「隼」約100機の派遣を決定)、12月18日に陸軍の戦闘機部隊の第一陣(一式戦一型57機を装備する飛行第11戦隊)がラバウルに到着した。 当初の6飛師は主に第11戦隊(一式戦)・飛行第1戦隊(一式戦)・飛行第45戦隊(九九式双軽爆撃機)・独立飛行第76中隊(一〇〇式司令部偵察機「新司偵」。一〇〇式司偵の独飛76中は6飛師編成前の1942年10月に既にラバウル進出済)からなり、のちには飛行第14戦隊(九七式重爆撃機)、ニューギニアへ転戦後は飛行第208戦隊(九九双軽)なども加わる。」 一応、陸軍機も太平洋戦線に(天皇からだけではなく海軍からの強い要望もあって)展開します。しかし、ほとんど活躍することはできませんでした。 これは色々な理由が挙げられます。まず筆頭としていえるのは陸軍機の「航続力の短さ」ですね。これは質問者さんもどこかで聞いたことがあると思います。日本陸軍機は航続距離が短く、行動半径が狭いのです。これは太平洋の広い海での戦いには不向きで、ほとんど役に立ちませんでした。だって戦いは陸軍機の航続距離のはるか先で行われていましたから。なにせ大航空機基地であったラバウルとガダルカナル島の距離は約1000キロメートルです。これは東京から福岡への距離に匹敵します。当時の飛行機で大阪に行くのだって大変なのに、福岡まで往復なんて距離がありすぎでしょう。 これはそもそも陸軍機の設計思想が長距離飛行を前提としていなかったからです。日本陸軍の航空機の使い方は「近い場所から何度も往復して空爆する」という思想だったのです。だから陸軍機に重視されたのは「速度」と「頑丈さ」です。何度も往復するから速度は速いほうがいいですし、何度も戦うわけだから敵戦闘機や対空火砲にも耐えられないといけません。そう、陸軍機って日本軍機のイメージと違って意外と頑丈なのです。見た目がゼロ戦そっくりの陸軍の一式戦闘機「隼」は、燃料タンクに防弾処理が施され、コクピットには防弾板が貼られていました。だから隼の航続距離は短いのです。防弾処理で飛行機が重くなるからです。 また陸軍機は船への攻撃は想定していなかったので、対艦攻撃の技術もありませんでした。魚雷なんてそもそも搭載できない(後に搭載するように改造しました)ですし、搭載したところで撃ち方が分からない。これは戦争後半になると海軍から指導を受けて陸軍爆撃隊も魚雷攻撃を試みるようになります。遅きに失してしまいましたが。 ただそれはあの天下のアメリカ陸軍航空隊も同じで、質問者さんもご存知でしょうがアメリカの重爆撃機B17が日本艦隊を攻撃したことがしばしばありましたが、命中弾を与えたことはありませんでした。水平爆撃では航行中の艦船に命中弾を与えるのはほぼ不可能です。後にB24は通商破壊戦で猛威を振るいますが、あれはほら、輸送船が相手ですからね。貧乏な日本軍は貴重な爆弾を輸送船相手には使えなかったのです。 また陸軍の軽爆撃機は敵飛行場爆撃を前提に設計されたものです。だから小さな爆弾を沢山積む仕様になっていました。細かい爆弾で飛行場に駐機している敵機や滑走路に沢山穴を開けるのです。 でもこれも、艦船攻撃、特に装甲化されている軍艦への攻撃には向かないですよね。もっとも、戦艦に対しては九九式艦爆の250キロ爆弾でも致命的なダメージを与えることはほとんどできませんけどね。 世間のイメージと違って、作戦行動中の戦艦が航空機で撃沈されたのは大戦初期のプリンスオブウェールズとレパルス、他には武蔵と大和だけですから。しかも武蔵は20本以上の魚雷の命中に耐えました。 また陸軍は戦闘機を一式戦闘機「隼」から三式戦闘機「飛燕」に更新しようとしましたが、あの例の水冷エンジンの開発にもたついて更新がままなりませんでした。 ちなみに海軍機は、日米問わずに全て空冷エンジンです。軍艦じゃ水は貴重ですからね。 まあそんな感じで、地味で何かと評判が悪い日本陸軍航空隊ですが、日中戦争やノモンハン事件などの戦歴やその戦訓から導かれた用兵思想などを考えると太平洋戦争は「チーターを森に放つ」ようなものであったといえると思います。 逆に海軍は「一発洋上決戦」が用兵思想ですから、航続距離は長ければ長い方がいいですし、「一発勝負」が前提となっているので防弾装備なんていらんのです。一回の出撃で全部やられても、こっちが相手に大きな損害を出させればそれでいいのですから。 だいぶ長い回答になってしまいましたが、こうやって見るとそれぞれの機体というのはそれぞれにちゃんと思想に基づいて設計されて作られていた、というのが分かりますよね。
その他の回答 (1)
- gunsin
- ベストアンサー率32% (415/1290)
20年前に亡くなった、ラバウルで零戦の整備をしていた、 父の話です。 ガダルカナル攻防戦の時期なのか期日は定かではないないのですが、 陸軍に協力要請をして、台湾から15機派遣される事に、なったの ですが、1機も到着しなかったそうです。 レーダーが無い時代に海の上を飛ぶのは非常に難しいのだと、 言ってました。 無線通信したら空母の位置が敵側に解るのに、真珠湾攻撃の時は どうやって空母に帰還したのかと聞いたら、太陽の位置と波の 向きで方向が解る操縦士が隊長を始めベテラン操縦士がゴロゴロ いたそうです、真珠湾攻撃の時はハワイのラジオ局を受信する 事でも方向が解ったそうです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 体験者のお話は、やはり説得力がありますね。 「1機も到着しなかったそうです」の短い言葉からでも現場の状況が浮かんできます。 いくら待っても友軍機が来ない。 どんな気持ちだったのでしょう。 「レーダーが無い時代に海の上を飛ぶのは非常に難しい」との話も、本で読むよりははるかによく理解できました。 質問した甲斐がありました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 陸軍は、海軍の懇請に応じて、12月に第12飛行団(隷下2個飛行戦隊)の一式戦闘機「隼」約100機をラバウルへ派遣したのですね。 第12飛行団を調べてみますと、翌年2月のガ島からの撤退作戦(ケ号作戦)では活躍していますから、結果オーライと言っていいでしょうね。 それにしても、太平洋の広い海での戦いには陸軍機は不向きであると海軍は百も承知していたはずですが、それなのに応援を頼まねばならないほど、海軍にとって背に腹は代えられない状況だったのでしょう。 ラバウル小唄でも久しぶりに聴いてみます。