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役小角の伝記について
役小角の伝記を読んでいたのですが、2つほど疑問が湧きました。まず、1つ目は、小角の父親は出雲の人で婿養子で奈良の賀茂家に入っていた、とあり、600年代のそんな古い昔に、すでに婿養子というシステムが夜の中に本当に存在したのか、ということと、そんな昔に、どうして島根の人と奈良の人が交流できたのか、という事です。次に2つ目は、小角は、2年間、伊豆大島に流された、との事ですが、当時、本州から伊豆大島まで船で渡るには、帆船でもあったのでしょうか? 以上、よろしくお願いいたします。
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婿養子のシステムができたのは中世以降といわれていますから、飛鳥時代にそういうものはなかったと思いますが、都である奈良と各地方の間には、貢物の輸送だったり、労役で駆り出されたりして、常に人の行き来はありますから、交流はそれなりにあったと思います。 また、Wikipediaの賀茂氏の説明の注釈3には 『出雲風土記』に意宇郡舎人郷 賀茂神戸とあり、また現在の島根県安来市には賀茂神社があって、祖神である言代主の活躍地である東部出雲に属することから、ここを本貫とする説もある。 とあり、出雲には奈良の賀茂氏とルーツを同じくする一族がいて、役小角の父がその一人だったという可能性もあります。出雲の賀茂氏と大和の賀茂氏との間で同族としての交流が継続的にあったということも考えられなくはありません。 なお伊豆大島は伊豆半島から25kmしか離れておらず、手漕ぎ舟で十分渡れると思います。
お礼
貢物……なるほど。確かに、それを運ぶルートは、あったでしょうね。賀茂家も、かなり広がっていたんですね。そんな古い時代だから、せいぜい100km位が限界かな、と思っていましたが、意外と交流範囲が広かったんですね。それと、25kmしか離れてなかったんですね。それなら、当時の船でも渡れたでしょうね。大変、参考になりました。ありがとうございました。