いや日本では街道で大名行列に行き合ったら下馬して見送るという決めがあったのですが大名行列も何もわからずに乗馬のまま対向してしまったので混乱になったとのこと。
西洋人とわかったら穏やかに下馬させる手段もあったのでしょうが、行列はただの参勤交代なんかではなくて尊王攘夷を謳う薩摩藩が幕府に圧力をかけるための軍勢であったので血の気の多い侍が斬りつけてしまったのです。
で倒れた一人がとどめと称して殺され二人が重傷を負って逃げ一人が無傷で逃げました。
尊王攘夷の王は天皇、夷とは西洋人、攘とはおいはらう、のことで天皇の権力を高めて西洋人を排斥しようという運動です。
薩摩はこの運動の最先端でしたから、穏便におさめるより相手のミスに乗じて西洋人を斬れるチャンスだというふうに思った考えの浅い侍がいてもおかしくなかったでしょう。行列の中心である島津久光も止めなかったというか駕籠から出なかったとのこと。
西洋の強国に対抗するために中央集権を進めようという発想が「尊王攘夷」の段階では単純に開国反対・西洋人排外主義であったのです。
しかしこの事件の賠償や決着を求めるイギリスとの外交問題に発展して結局次の年にイギリスは薩摩に軍艦を送って攻撃し、軍事力の決定的な差を見せつけました。
このことが攘夷論に変更を余儀無くしてむしろ逆に日本の文明開化=西洋文明の取り入れによって近代化し藩単位ではない近代的な外交へと向かわせたわけです。
薩英戦争をきっかけにイギリスは薩摩藩との外交関係を作って幕府打倒やその後の政権との関係を作っていますので、単純に仕返しではなくて非常にしたたかです。
他民族や人種への排外主義を利用して内政の不満を振り向けるような考え方はロクな結果を招かないので軽はずみに尻馬に乗るのは気をつけるべきと思います。
ただの法規を知らないための違反だったものを思想に影響されて過剰な反応で殺してしまったという所です。