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京の都から鎌倉まで、あるいは江戸までの移動日数は
中世や近世の交通に関する質問です。 鎌倉時代、都と鎌倉の間は頻繁に往復(公的・私的・軍事的に)していたと思います。 日数はどのくらいかかったのでしょうか。少人数と大人数によっても異なるとも思います。 東海道の場合と東山道(一部鎌倉街道)の場合でどうでしょうか。 江戸時代は京の都と江戸の間は何日くらいかかったのでしょうか。 大名行列、一般市民、飛脚の場合 これも東海道と中山道の違いを教えてください。 また例幣使は何日くらいだったのでしょうか。(都~中山道~一部東山道~例幣使街道~日光)
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- PENPENMAKKY
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歩いて9日です。これは幕末の商人日記を解読した結果でもあります 東海道53次とは朝食・朝休憩・昼食・昼休憩・夕食・宿場の順で並んでいます。
- tanuki4u
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E5%B0%8A%E6%B0%8F 「8月2日、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かった。天皇はやむなく征東将軍の号を与えた。尊氏は直義の軍勢と合流し相模川の戦いで時行を駆逐して、8月19日には鎌倉を回復した。」以上より引用 18日間 一日は相模川の戦い 京都=鎌倉 450KM 程度なので 26Km/日 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0#.E5.A4.A7.E5.9D.82.E3.81.AE.E9.99.A3 「江戸から伏見まで17日間で到着するという強行軍を重ねた。」以上より引用 17日間 東京=京都 480Km 28Km/日 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3 「10月11日、家康は軍勢を率いて駿府を出発した。この開戦が決まると、家康はいつになく若やいだと本多正純は記している。23日に二条城に入り、」以上より引用 駿府=京都で 12日間 静岡=京都 300Km 25Km/日 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E9%A1%95%E5%AE%B6 「600kmにも及ぶ長距離を僅か16日で駆けており、一日の平均移動距離は40km弱である。1月13日には近江愛知川に到着しており、渡渉などが続く中1日30kmのペースを維持している」 http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/joukyu/index.html 途中の戦闘は 6/5の墨俣あたりの一日で 5/22-6/4 として13日 360Km 27Km/日 途中の戦闘がなく、単に行軍ですと 25Km/日 程度のようです。 ※ 本格的な軍事行動を前提にして 関東=関西 を 移動したのはそれほど多くないように思います。 ※ 秀忠が強行軍で怒られているが、上記の例で行くと、そんなに強行軍じゃないなぁ。
お礼
丁寧な回答ありがとうございました。 なるほど、大体平均すると 25~27km/日 程度と見てよろしいでしょうか。 戦ではなく、地方豪族が供を20人程度つれて興しで移動する場合も同程度でしょうか、 あるいは、それよりももっとゆっくりでしょうかね。
- ks5518
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創価学会 壮年部の者です。 日蓮大聖人の御書の中に、「京まで鎌倉より12日」とありますので、少人数の旅で12日かと思われます。 もちろん、馬や大事な書を届ける方などは、もっと早い日数かと思います。 鎌倉より、江戸までは、プラス1日です。
お礼
回答をありがとうございました。 京ー鎌倉間を12日ですか、結構早いですね。少人数ですね。
お礼
回答をありがとうございました。 「歩いて9日」は東海道を江戸から京までという意味でしょうか。 質問項目が多くてすみません。 「東海道53次とは……」の回答については 私の理解力不足で申し訳ありません。ちょっと意味が取れません。