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東叡山寛永寺の石高。
東叡山寛永寺のHPには、 「寛永寺の境内地は、最盛期には現在の上野公園を中心に約三十万五千坪に及び、さらにその他に大名並みの約一万二千石の寺領を有しました」とあります。 質問です。 1.約一万二千石とは、大名の場合の“表高”に相当するものですか。 つまり、五公五民であれば、寛永寺の実収は約六千石ですか。 2.年貢徴収時の寺側の立会人は誰ですか。 私領では、藩の役人が村の名主の家の庭先で年貢米を検査するイメージです。 寺は、年貢徴収には直接関与せず、幕府の役人(寺社奉行の配下)が取り仕切っ たのですか。 3.年貢米は、寺の蔵に入れたのですか。 お分かりになる項目だけでもよいですから教えてください。 よろしくお願いします。
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3.は?ですが、1.&2.に関しまして、 下記(1)が概略で、 抜粋はしませんでしたが、下記(2)では寄進経緯が具体的で、 また「享保年度の寺領目錄/東叡山領目錄」<553-554/721>(1000-1002頁) から各村名&石高(但し、その後小変化有りの模様)が把握出来ますとともに、 続く「東叡山領壹萬千七百九拾石配當目錄」の後半箇所などにて 当時の表高「壹萬千七百九拾石」に対する 年貢高「四千百貳拾六石五斗」と年貢率「三ツ半定納(※35%)」も 把握出来ます。 なお、残念ながら寺役人の仕事ぶりにつき見い出せたのは下記(3)程度です。 (1) 〇「幕末・維新期の東叡山領組合─寄場組合・鷹場組合との関連で─/ 増田節子」<12-27/49>(21-51頁) 『論集きんせい 第6号/東京大学近世史研究会論集編集局/1981.5』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7951428/13 <13/49>(22頁下段5-20行目) 幕府からは、正保三(1646)年十二月に豊嶋郡の田端・新堀・金杉・坂本・中里・稲附・赤羽の七ケ村の2100石を寄進された。以後寄進地が増加し、元禄期には8100石余、享保三(1718)年には1万2000石程となったが、その後は変化せず明治維新を迎えた。 この東叡山領の支配は、目代田村権右衛門が、手代六人、同心二〇人をかかえて行っていた。 東叡山領の村々は以下の通りである。 ○豊嶋郡…上十条・下十条・赤羽・稲附・蓮沼・根葉・志・中台・四つ葉・徳丸脇(一〇ケ村)─これを戸田領と称する。 ○豊嶋郡…坂本・金杉・竜泉寺・三之輪・三河島・町屋・谷中本町・早川・新堀・田端・中里・上尾久・下尾久・舟方・梶原堀之内・豊嶋(十六ケ村)─これを峡田(はけた)領と称する。 ○足立郡…鹿浜・上沼田・下沼田・伊興・新里・堀之内・加々皿沼・柳島・原・新井方・十二月田・高野・谷在家・前田(十四ケ村)─これを渕江領と称する。 (2) 『下谷區史〔本編〕/東京市下谷區役所/1935.3.31』 「第二十章 宗教 第三節 寛永寺 三 寺領」 <548-556/721>(991頁7行目-1006頁14行目) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920866/548 <551/721>(996頁16-17行目) 目代は代々田村權右衞門と云ひ、社領關係その他の俗務を總轄し、なか\/の 權力を有してゐた。 <552-553/721>(999頁9行目-1000頁3行目) 享保三年七月十一日には、…(中略)…總額一萬一千七百九拾石となつた。…(中略)…この後、寛延三年の檢地に三千二百三拾七石九斗六升六合五勺の繩出高があつて、總高一萬五千二拾一石九斗三升六合五勺となり、また安永三年足立郡蓮沼、原二村の内合せて高六百七拾五石八斗四升九合の上知を願ひ、上野國甘樂郡大牛、兵、諸戸三箇村の内に於て同額の替地を給せられ、武藏三十五箇村、上野三箇村合せて三十八箇村となるといふやうな小變化はあつたが、享保三年の一萬一千七百九拾石といふ本高は固定したものであつた。 <555/721>(1005頁11-12行目) 高都石(※合?)壹萬千七百九拾石 片取米四千百貳拾六石五斗、但三ツ半定納也 (3) 『下谷と上野/玉林晴朗/東台社/昭和7.10.5』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1172350/162 <162/346>(284頁5行目-285頁2行目) 山内には『山同心』と稱する、背に山鎹を染拔いた淺黄の法被を着て、たつつけ袴に木刀と言ふ姿の、寺役人が居て取締をして居た。この總取締は例の目代田村權右衞門である。…(中略)…田村權右衞門は寛永寺々内の諸取締は勿論、東叡山領の年貢の取立及び領内の支配等寺務以外の一切の事をやつて居り百石の祿を得て居た寛永寺專屬の寺役人であつた。そして其部下の山同心が山内を見廻り花見連の取締をもなし、暮六つには寛永寺の諸門を締切り、それを限りとして皆追出してしまつたのである。 ほか参考URL 〇「寛永寺の寺務組織について/横田知恵子」 『学習院史学 3号/1966.11.25』(39-64頁) http://hdl.handle.net/10959/1779 以上
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 僧衣が、年貢の取立に立ち会うことはないだろうと思って質問しました。 幕府の役人が代行していたのでは、と思っていました。 東叡山には目代という名の役職があったのですね。 “寛永寺專屬の寺役人”という立ち位置が微妙ですが、 その役を「俗人」の田村権右衛門が百石で請け負っていたと解釈しました。 1.東叡山領の支配は、目代田村権右衛門が、手代六人、同心二〇人をかかえて行っていた。 2.田村權右衞門は、寛永寺々内の諸取締は勿論、東叡山領の年貢の取立及び領内の支配等寺務以外の一切の事をやつて居り百石の祿を得て居た“寛永寺專屬の寺役人”であつた。 すっきりしました。