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年貢
江戸時代、分家(郷士)にした家がありますが、田んぼ7反、畑400坪、あと山(松の木を育ててたらしい)にも土地所有してたみたいですが、 この場合って、年貢はどうゆう感じで取られるんですか? 因みに、田んぼ1町未満は年貢がとられないとか聞いたことあります でも、村では尊敬される家で、どちらかというと裕福だったそうですが、農地は多く所有してはないです
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「田んぼ7反、畑400坪」もあれば平均的な百姓だと思いますよ。 「名寄帳」で調べてみました。 年貢は村請負ですが、この年貢を村の本百姓一人一人に割り振った年貢(小割といいます)の帳面が「名寄帳」です。 本百姓1戸当たりの耕地面積や屋敷地も記録されています。 無断転載禁止ですからコピペできません。 埼玉県比企郡嵐山町の「嵐山町web博物誌 郷土史アーカイブ 第1章地誌 第10節:嵐山町史」 http://www.ranhaku.com/web06/01chishi/10_000.html この中の「一、村の成立 第3節:小農自立の展開」に詳しいです。 次のページでは、宝永二年(1705) 実施の検地による、百姓家1戸当たりの平均的な田畑面積が分かります。 http://www.ranhaku.com/web06/01chishi/10_022.html 他にも慶長二年(1579)、慶安三年(1650)、寛文八年(1668)、元文五年(1740)の名寄帳があります。 山にも(屋敷地にも)年貢がかかり、「〇文」とか納めていることが分かります。 「田んぼ1町未満は年貢がとられないとか聞いたことあります」とのことですが、そんなことはないですね。
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- eroero4649
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江戸時代には何藩だったのでしょうか。それぞれの藩で年貢は決まっており、それに基づいて納めることが決まっていました。一般的には五公五民、すなわち半々でした。 半分は税金(年貢)というとバカ高い印象がありますが、そこは抜け道がございまして、その年貢をかけられている田畑の出来高は基本的に申し出に基づくものでした。 つまりこうです。調査する役人がやってくると、農民は「この土地は年間でこれほどの出来高となります」と説明してそれが正しいと思ったらそれが通ることになります。役人は武士ですから農民の経験がありません。だからどのくらいとれるのかはよく分からないので基本的には鵜呑みにするしかないのです。しかし役人も権限はありますし農民は反論はできませんから「いいやそんなことはない。このくらいはできるはずだ」といわれてしまうとそうなってしまいます。 だもんですから、そこんところは農民側は賄賂を役人に用意して「どうぞ上手くお取り計らいをお願いします」とやります。役人もそこで農民をいじめたところで自分の手取りが増えるわけでもないので、貰うもんは貰っておいて「物わかりのいい方だ」といわれるに越したことはない、とそこは「ウィンウィンの関係」が成立することとなります・笑。 実際の取れ高を調査するには、測量して実測することとなりますが、それは権力者側に非常に強い権限が必要です。農民が反対してそれこそ一揆でも起こし、それが幕府の知れるところとなったら「一揆を出して統治能力がない」と藩が取り潰されてしまいます。なので江戸時代に実際の土地を測量するということはなかなかありませんでした。豊臣秀吉が測量して調査したのはそれだけ強い権力を持っていたということでもあるのです。 あまりお金があることが武士に知れると「今度土木工事をするからそれに協力しろ」とか「金を貸してくれ」とかやられますので、そこは程々にしておかないといけないというのはありましたね。
- tzd78886
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年貢の鳥率ややり方は領主が独自に決めていた物なので、全国一律のルールはありません。江戸時代の日本というのは一つの国というより「連合国」「連邦国家」のようなものでした。他藩と言えば外国に近いもので、もちろん自由気ままに住所を変えたりはできませんでした。