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藩により武士階級が違う
薩摩藩や譜代藩では郷士も、例えば、薩摩藩では下級上位の武士階級、譜代藩では家臣と別の枠の所に郷士士分(固定階級で出世はない)として書かれたみたいですが 幕府に関しては、郷士も士分扱いだった、士分扱いじゃないと意見が分かれてまして、よく分からないです 何故に藩ごとに、こんなに違いがあるんですか?
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No.2、3です 再度補足を頂戴しました。 いろいろお調べのようですが下記のような資料がありますので参考にして下さい。 >ご先祖の由緒書きみたいのがあるそうです。 どちらに保管されていることが分かりましたでしょうか。 土浦藩は代々老中を排出する名門だったこともあり現在も土浦市役所が積極的に資料集を発行しています。 参考 土浦市史資料集『土浦の文化財関係史料集』 http://www.city.tsuchiura.lg.jp/index.php?code=3342 市立の博物館でも土浦市の歴史に関する資料をいろいろ発行しています。 参考 土浦市立博物館 - 各課ホームページ | 土浦市公式ホームページ http://www.city.tsuchiura.lg.jp/section.php?code=43 おそらく市の図書館で閲覧できるかと思います。 尚、 国文学研究資料館の史料情報共有化データベースの中に常陸国土浦大久保家文というものがあることが登録されています 「大久保家文書」は大きく3つのまとまりからなり土浦藩の役務柄伝来した文書があるとのことです。 他の藩士のお宅に代々伝わった文書もあるようです。 >代官は城下に引き上げたそうです。 土浦藩での経緯は知りませんが江戸幕府の勘定奉行配下の代官は江戸の私邸を代官所としていて任地へは元締等を派遣して済ませていました。 これは幕府公認で代官を拝命すると私邸役所建設費として金六十両が貸与されていました。 勘定奉行所の代官所の組織は 代官ー元締二人ー手代(手付)八人ー書役二人ー侍三人ー勝手賄一人ー足軽一人ー仲間十三人 となっていました。 土浦藩の代官所の組織は知りませんが階級などは勘定奉行所の代官所と同じで人数だけ違っていたのではないかと思います。 手付は小普請組に所属する御家人でしたが手代は百姓、町人など武士身分以外の人でした。 代官が勘定奉行に伺って許可されれば就任できました。 ご先祖様の由緒書はこのときに使われたものではありませんでしょうか。 元締は手代や手付の中から選ばれました。 ご先祖様の由緒書はあるいはこの時に使われたのではないのでしょうか。
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- ichikawa2017
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No.2です 補足を頂戴しました。 疑問に思われた事柄があるようですので説明させて下さい >それで江戸後期に書かれた分限帳に、ご先祖の名前が載ってなかったのかもしれませんね >江戸後期の3つの、分限帳には名前は載ってませんでした 以前の他の御質問から推察しますとご先祖様は土浦藩の代官所で手代(手付)として勤めておられた時期があったかと思われます。 土浦藩での代官の処遇が良く分かりませんが一般論で言いますと代官は藩士の中から任命されて着任していました。 代官所内の手代などの役人は代官所に所属する役人として扱われていました。 結果として代官所内の役人に支払われる給与(禄)は代官所の経費として取り扱われました。 藩によっては形式上代官が雇用した者とされ給与は代官に支給される禄の中から代官が負担していたところもありました。 分限帳はご指摘のように給所を充行(あておこな)う際の台帳,家臣に役金等を課す際の台帳,軍事的配置を記す軍役帳,家臣の行政上の配属を記すものなどがありました。 藩によっては郷士身分の人に軍役を課していなかったところもあります。 戦が途絶えた江戸時代の半ば以降は軍役に関する分限帳は余りやかましく管理されていませんでした。 このようなこともあり半ば以降は専ら支給する禄の管理用の分限帳がやかましく管理されていました。 代官所の役人に支払われる禄が代官所の経費や代官の裁量で支払われていたのであれば個々の役人については記載されていませんでした。 つまり藩としての分限帳には記載されていませんでした。 代官所の書類が残っていればそれには記載されていたかと思います。 代官所の手代は地方巧者という地元の事情に詳しい有能な人物が勤めていましたので藩としては貴重な人材でした。 とは言え役人がやるお役所仕事ですので分限帳などという公文書には杓子定規に記載していなかったのでしょう。 >近藤勇は確か士分じゃないのも、切腹じゃなく、斬首になった理由の一つでしたよね? 近藤勇の処刑には偶然が重なり不本意な結果に終わった事件でした。 当時坂本龍馬を暗殺したのは新撰組と考えられていました。 板橋に駐屯していた朝廷軍の中に土佐藩出身の人間がいました。 土佐藩は上士下士などという他藩には見られない制度を持っていて上士以外の身分の者を徹底的に峻別していました。 土佐藩出身者が坂本龍馬暗殺の報復のとして近藤勇をやり玉にあげて処刑を強行に主張しました。 新撰組が近藤勇を奪回しに襲撃してくることを怖れていた駐屯軍がこれを受け入れました。 処刑に当たり土佐藩出身者が報復の意味もあって斬首を主張しました。 後に江戸でこれを聴いた朝廷軍の本体は烈火のごとく怒りました。 函館戦争で降伏した榎本武揚を明治政府の高級官僚として雇用したように当時の朝廷軍は有能な人材であれば敵味方なく採用していました。新撰組を率いるだけの才能がある近藤勇も取り込もうと考えていた矢先に殺してしまうとは何事かということと、既に幕府から大名として甲府へ向かうことを命ぜられていた近藤勇を出自が百姓身分の郷士であったことを持ち出して武士として切腹させなかったことは武士として許しがたい行為だとして怒りました。 まぁ~理屈や情緒は別として在郷藩士や郷士の取り扱いが各藩各様だった結果起きた悲劇でした。
- ichikawa2017
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>何故に藩ごとに、こんなに違いがあるんですか? 藩ごとに違いが出た理由は大雑把に分けると三つほどあります。 ○藩幕体制と呼ばれる政治組織だった。 ○江戸幕府が中央政府ではなかった。 ○武士階級の発祥が二通りの系統があった。 三百諸侯と言われるように江戸時代は諸侯つまり大名によって分割統治されていました。 この大名の中で軍事力と経済力が最大だったのが徳川氏でした。 中央政府は京都朝廷でした。 京都朝廷が徳川氏に大名の統制(統括)を委任していました。 幕末に行われた大政奉還というのはこの朝廷から委任されていた責務を朝廷に返上しますという儀式でした。 後は他の大名にお申し付け下さいという意味が込められていました。 最後の将軍慶喜にしてみればやれるものならやってみろといったところでしょう。 徳川氏が朝廷からの委託された大名の統制に当たり徳川氏内部の政治組織をそのまま流用して幕府としていました。 結果として幕府の収入はあくまでも徳川氏の領地からの徴収のみで全国から年貢を徴収するということはやっていませんでした。 現在の政策や法律が全国を対象としているのとは違い幕府の政策や法律は大名の領国であった藩には適用されませんでした。 江戸時代を通じて○○の改革とよばれる政策が行われていましたがこれと同じ政策を実施すか否かは大名の考え方次第でした。 有名なのが享保の改革が行われた際に尾張徳川家の当主だった徳川宗春は吉宗の質素倹約政策に対してむしろ規制緩和政策をとりました。 祭りや芝居を奨励し自身も派手な衣装で城下を練り歩きました。 このように幕府が定めた法律と同じ内容の法律を自分の領国内でも施行するか否かは大名の意志次第でした。 結果として郷士をどのように位置づけどのような身分としてあつかうかは個々の大名の考え方一つでした。 武士階級というのは源平の系列の武士と自然発生的に生まれて実力本位でのし上がった武士の二つの系列がありました。 農民だった秀吉が信長の家臣になりついには関白にまでなることができたのはこの後者の系列があったおかげです。 同じ武士であっても源平の系列の武士の方が格が上とされていました。 信長も権力を手に入れると平氏を名乗りました。 家康も当初は藤原氏を名乗りましたが権力を手にした以降は源氏を名乗りました。 このように源平の系列に属すると自認していた武士は後者の系列とされた武士に仕えることをせずに独立していた人が数多くいました。 やがてこれらの人達の中から郷士と呼ばれる人達が生まれました。 つまり大名よりも家格が高い郷士がいる藩もありました。 この家格を尊重するかしないかは大名次第でした。 >幕府に関しては、郷士も士分扱いだった、士分扱いじゃないと意見が分かれてまして、よく分からないです。 これは家康が秀吉の命令で岡崎から関東へ移されたことが大きく影響しています。 家康が関東へ入った当時の関東地方には小田原北条氏所縁の武士や鎌倉足利氏所縁の武士、源平の系列の武士などが割拠していました。 個々の武士の武力は小さくても武力で制圧しようとするともぐら叩きのようになってしまいます。 家康はこれを避けるために武田信玄の遺臣を積極的に召し抱えて後の代官のように関東各地に住まわせて割拠している武士の統治をさせました。 この武田家の遺臣の人達の中に郷士になる人もいました。 武田家で身分が低かった人達を八王子に住まわせ八王子千人同心と呼ばれる集団にして上杉などが南下して来るのに備えました。 この人達がどのような身分として処遇されていたかについては諸説あります。 完全な百姓だったという説と郷士だったという説などがあります。 幕末に京都へ送り込まれた新撰組は多摩地方の郷士が中心の軍団でした。 当時京都守護職だった松平容保預かりの私的な武装集団と位置づけられていました。 近藤勇が板橋で処刑された際に切腹ではなく斬首だったのはこのためです。 以上のように極めて複雑なことからよく分からないのもやむを得ません。 薩摩藩は他の藩とは異なり武士に対して城下町での居住を義務付けませんでした。 むしろ武士を領内に分散して居住させて農耕に従事させていました。 武士と百姓の区分が判然としない体制でした。
補足
郷士、在郷藩士は藩、大名により扱いが様々ということですね それで江戸後期に書かれた分限帳に、ご先祖の名前が載ってなかったのかもしれませんね ご先祖は、藩に士分と登録されて在郷藩士の扱いをされてましたから、何かの書類には書かれてるはずですが、図書館に置いてある、江戸後期の3つの、分限帳には名前は載ってませんでした 近藤勇は確か士分じゃないのも、切腹じゃなく、斬首になった理由の一つでしたよね?
- nagata2017
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それぞれが一つの国ですから 制度もその国の当主が決めるのでちがってきます。 豊臣のように 低い身分から這い上がったような領主は 豊臣が刀狩りをして 武装解除することで 同じように下から倒されることを回避した。というように身分制度をがちがちに固めて下克上を防ぐということもあります。 そういったことが 制度の違いになっているのでしょう。 「一豊の妻」という逸話で知られる土佐藩主もその一人 上士 下士という身分制度で固めて 下から這い上がれないようにしていた。
補足
ありがとうございます ご先祖は、お城勤めだったみたいです、ご先祖の由緒書きみたいのがあるそうです 土浦藩の代官所はありましたが、藩の権力集中のため、代官所の権限縮小のために、いつかは分かりませんが代官は城下に引き上げたそうです、残った代官所はあまりなかったじゃないかと思います