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江戸時代、魚の行商。

広重の「東海道五十三次之内 日本橋 朝之景」には、仕入れた魚を市中に売りに出ようとする行商の魚屋が描かれています。 これらの魚屋は、どの辺りまで行商したのでしょうか。 江戸四宿と呼ばれる千住、板橋、内藤新宿、品川まで売り歩いたのでしょうか。 品川は海に近いので、落語“芝浜”のとおり魚は地元で賄えたはずで、日本橋からやってくることはなかったでしょうね。 よろしくお願いします。

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回答No.3

昭和の頃の行商人が大体、10km圏内を売り歩いたという記録を読んだ事がありますので。江戸時代ならばもう少し範囲を広げて20km圏内で売り歩いたのではと推測します。江戸市中で商いを行うには当然というか江戸幕府の許可が必要でした。許可を受けた商人には「鑑札」が発行され、扱って良い商品が決められていました。しかしながら魚を始めとした食料品の大部分は鑑札は必要無く、思い立ったが吉日で無許可営業でも特にお咎めはありませんでした。また50歳以上と15歳以下、及び身体障害者には優先的に鑑札が発行される慣例がありました。 ただし魚は日持ちがしない上に悪くなったモノを食べれば即、食中毒で死ぬ危険もありますので、そこら辺を考慮しても行ける範囲まで行くという様な事では無く、仕入れた鮮魚が悪くならない内に売り切れる範囲までしか行かなかったと考えるべきでしょう。落語の『芝浜』に倣えば魚河岸で鮮魚を仕入れるのは夜明け前との事ですので、大体は朝6時位までに仕入れてそれから売り歩いて気温が上昇し始める昼前には売り切らないと、行商人も客も双方共に色々とヤバい事になったと思います(笑)。 …とは言いつつも当時の川柳などに「恥ずかしさ医者に鰹の値が知れる」などと歌われているくらいですので、午後になっても売れ残った魚は値下げして売り歩き、それを安い値段で買い求める貧困層やケチな客がそれなりに居た事が伺い知れます。また江戸時代の魚の行商人、つまり「棒手振り(ぼてふり)」は今の魚屋の様に雑多な種類の魚を取り揃えて売り歩くのでは無く、行商人の個人個人で専門にしてる魚介類の種類が決まっていて、鰹なら鰹だけ、鮎なら鮎だけを専門に仕入れて売り歩くのが基本というか普通でした。 これらの棒手振り達は気の向くままに行商して練り歩いた訳では無く、仕入れる前から既にある程度は買い手が決まっているのが普通で、まあ今みたいに書面で売買契約を交わしている訳ではありませんが、いわゆるお得意さんというか馴染み客が決まっていて、魚を仕入れたら真っ先に常連客の元に売りに来て大部分を売り切ってしまうスタイルが主流です。また魚河岸に揚がった魚は最初に全て将軍家が最優先で貰う権利があり、そこから余った二流品を大名家が買い、さらに売れ残った三流品以下のモノが初めて棒手振りや江戸市中に店を構える大店に卸されました。 尚、江戸時代の市中に店を構えた "魚屋" は現代の魚屋とは違って鮮魚は取り扱わず、干物や塩漬けのみを売り買いしていました。鮮魚は前述の様な棒手振り専門の商品でした。 また現代人以上に江戸時代の人々は何の科学的根拠も無い迷信を120%信じ切って日々の生活の指針としていますので、例えば「初鰹」に代表される様に様々な迷信や故事に基づいた旬を異様なまでに江戸市中の人々は尊んでいたため、脂が乗って最高に美味しい秋口の「戻り鰹」はそれこそ "猫またぎ" と呼んで忌み嫌いました。最近はweb上にもデマ歴史が溢れかえり、江戸時代に脂の乗った戻り鰹が好まれなかったのは「脂の多い魚は痛み易いので食中毒を避ける知恵」みたいな嘘解説が平気でなされてますが、それを言ったらサンマやサバはどうすんだよって話ですね(笑)。 冷蔵庫が無い時代、白身の鯛と脂の乗ったマグロを同じ常温放置したらどっちも同じ様に痛みます。特段に鰹や鮪の方が早く傷んで食中毒になりやすいなんて事実はありません。ただし赤身魚(鮪、鯖、秋刀魚)の身に含まれるアミノ酸の一種が時間経過と共にヒスタミンに変化し、それを食べるとヒスタミン中毒(アレルギー症状)を起こすため、それで経験則で赤身魚を避ける様な事はあったと思いますが、これは "脂の乗り" とは全く関係がありません。 魚を食べて引き起こされる食中毒の代表は腸炎ビブリオとサルモネラ菌ですが、どちらも良く加熱調理する事で防ぐ事が出来るため、午前中に売り買いした鮮魚を手早く調理して煮付けなどにしてしまえば丸一日経っても滅多な事では食中毒になる事はありません。 因みに「鯛はめでたい」と高級魚扱いしてたのは江戸だけで、それ以外の日本全国的には高級魚と言えば鯉でした。今でもその習慣は一部地域に残っていて、祝い事の席では鯉料理が振る舞われます。また江戸市中の人々は蜆(シジミ)は健康に良いと考えていたため、蜆売りは繁盛していた様です。取り決めがあった訳では無いでしょうが、伝統的に蜆売りは15歳未満の駆け出しの少年が商うモノという商習慣があったみたいです。尚、鯵(アジ)は漁法の関係からか昼過ぎに水揚げされるため、鯵売りは夕方にやって来るのが習いでした。 P.S. 落語の『芝浜』が成立したのは明治時代以降の近現代になってからですので、アレをそのまま信用して「なるほど江戸時代はこうだったんだ」と思い込むのは早計です。同様に現代に伝わる "古典落語" と呼ばれるモノのほとんどは明治時代以降に創作改変された、当時の明治維新や文明開化に湧く人々から見ての「古き良き日本(笑)」を想像しながら創作した物語です(何時の時代の人々も考える事は同じなのです)。ですので特に人情噺に描かれる道徳観は明治時代の富国強兵の思想に大きく影響されており、実際の江戸時代の庶民感情とは大きくかけ離れている事に留意して読み解かなければなりません。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 日本橋や品川から遠く離れた市ヶ谷辺りに上屋敷があった尾張徳川家は、どうしたのだろうと思いました。 >また魚河岸に揚がった魚は最初に全て将軍家が最優先で貰う権利があり、そこから余った二流品を大名家が買い、さらに売れ残った三流品以下のモノが初めて棒手振りや江戸市中に店を構える大店に卸されました。 なるほど、そういうことですか! 大名家などは小者に運ばせることもできますね。 “目黒のサンマ”という落語もあります。 鮮魚が出回っていたことは想像できます。 庶民でも、入手できる手があったのでしょう。 一枚の絵で楽しめました。

その他の回答 (3)

回答No.4

それでは、も少し遠い所の人々は、江戸前の鮮魚を食っていたのだろうか、と疑問に思いました。 ↑ 江戸前とは東京湾で取れた魚を言いますから、品川で取れたものでも江戸前ですよ。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 朱引内を江戸としますと品川からどの辺りまで行けたのだろうと思いました。

  • oska2
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回答No.2

>仕入れた魚を市中に売りに出ようとする行商の魚屋が描かれています。 江戸の町では、魚の行商は「花形」だったようですね。 魚河岸から仕入れた魚を、江戸市中に販売していた様です。 大正時代まで、魚の行商があった様です。 今でも、地方に行くと漁師の奥さんなどが自転車に魚を積んで各家庭に行商を行っています。 >これらの魚屋は、どの辺りまで行商したのでしょうか。 まぁ、一律には回答できないですね。 魚の行商に限らず、「棒手振り」(魚・豆腐・風鈴・金魚などを天秤棒で下げて販売)の活動範囲は決まっていた様です。 江戸市内を、自由に行動出来た訳ではありません。 まぁ、丸の内線沿線まででしようね。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 天秤棒を担いでいたのではそんなに速く歩けないので、一里四方くらいかなと思っていました。 それでは、も少し遠い所の人々は、江戸前の鮮魚を食っていたのだろうか、と疑問に思いました。

回答No.1

そりゃ上野浅草を中心とした場所でしょ。 魚の量も江戸前ですから大量でもないでしょうし、行商も大量の魚を売り歩くこともない。 品川などは魚が取れるでしょうから、新宿あたりまで運んでいたでしょうし。 結局は浅草・千住から西は江戸城近辺でしょうね。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 天秤棒を担いでいたのではそんなに速く歩けないので、一里四方くらいかなと思っていました。 それでは、も少し遠い所の人々は、江戸前の鮮魚を食っていたのだろうか、と疑問に思いました。

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