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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:江戸府内)

江戸府内の範囲とは?

このQ&Aのポイント
  • 江戸府内の範囲は江戸町奉行が管轄する範囲と一致しない可能性があります。
  • 品川宿は東海道の宿場町であり、多摩川を渡す渡し船があったと考えられます。
  • 日光街道の最初の宿場は(北)千住であり、現在は隅田川と荒川放水路に挟まれた地域に位置しています。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

すみません。 正誤表です。 正しい 1について・・・ (誤)No・・・江戸府内と町奉行の管轄地は違います。次のURLで朱引図(しゅびきず)が御府内ですが、墨線(ぼくせん)が町奉行の管轄の範囲です。目黒不動の辺りでは矛盾も起きています。後述を参照してください。 (正)江戸時代初期はYes。後にNoです。 (誤)*文政元(1818)年8月・・・目付牧野助左右衛門から「御府内外境筋之儀」というお伺い書が老中に出されたのを契機に、勘定奉行、評定所等で打ち合わせが繰り返され、同年12月に東は中川、西は神田上水、南は目黒川、北は荒川や石神井川下流を結んで、老中が初めて絵図面に朱線を引き、老中としての見解を明確にした。この朱線を「御朱印図」(または「朱引図」)と呼びました。従って、この範囲までの「警察権」のみが町奉行所の範囲。しかし、同時に町奉行所の定町廻り同心の管轄範囲として、二里四方に墨線が引かれてあり、奉行所の「定町廻り同心」は、この範囲を廻っていれば良かった。つまり、犯罪が起きた時だけ、朱線内であれば出張った。だが、ご存知のように、御城近辺はかなりの町割り図がはっきりとしているものの、それ以外は、「田地」「畑地」とおおざっぱであったので、実際に「ここまで」「これ以外」という区別はつきにくかった。さらに、サイトでも分かるように、目黒不動尊の辺りでは、朱引の外に墨線が引かれる、と言う矛盾もあった。 目付は旗本や御家人の取り締まりをする役目。なお、大名を取り締まるのは大目付でした。 (正)*文政元(1818)年8月・・・目付牧野助左右衛門から「御府内外境筋之儀」というお伺い書が老中に出されたのを契機に、勘定奉行、評定所等で打ち合わせが繰り返され、同年12月に東は中川、西は神田上水、南は目黒川、北は荒川や石神井川下流を結んで、老中が初めて絵図面に朱線を引き、<この朱引図内を御府内として>老中としての見解を明確にした。この朱線を「御朱印図」(または「朱引図」)と呼びました。従って、この範囲までの「警察権」のみが町奉行所の範囲。しかし、同時に町奉行所の定町廻り同心の管轄範囲として、二里四方に墨線が引かれてあり、奉行所の「定町廻り同心」は、この範囲を廻っていれば良かった。つまり、犯罪が起きた時だけ、朱線内であれば出張った。だが、ご存知のように、御城近辺はかなりの町割り図がはっきりとしているものの、それ以外は、「田地」「畑地」とおおざっぱであったので、実際に「ここまで」「これ以外」という区別はつきにくかった。さらに、サイトでも分かるように、目黒不動尊の辺りでは、朱引の外に墨線が引かれる、と言う矛盾もあった。 目付は旗本や御家人の取り締まりをする役目。なお、大名を取り締まるのは大目付でした。 <この御府内を決めたのは、旗本や御家人は御府内であれば夜九つ(午前1時)までに自宅に帰っていれば自由でしたが、御府内の外での宿泊には目付への届出が必要であり、目付としても御府内を決めてもらう必要に迫られたからです。>

krya1998
質問者

お礼

 度々有り難う御座います。  目黒不動、目赤不動と五色目地蔵の事は駒込あたりの向丘の不動様で見ました。  目黒不動あたりで墨線が朱線をでたとは面白いですね。  私の聞きかじりの与力同心の伺いの話は目付牧野助左右衛門からの「御府内外境筋之儀」というお伺い書に連動したことなのかも知れません。  地域の自治体の学芸員のシニア向けの講義の挿話ですから。  旗本、御家人が江戸府の外で宿泊することの制限があったとはまた興味のある話でもありますね。  多分、この制限は旗本や御家人の帰属意識にも関連していたかもしれませんね。  有り難う御座いました。

その他の回答 (1)

回答No.1

こんにちは。 1について・・・ No・・・江戸府内と町奉行の管轄地は違います。次のURLで朱引図(しゅびきず)が御府内ですが、墨線(ぼくせん)が町奉行の管轄の範囲です。目黒不動の辺りでは矛盾も起きています。後述を参照してください。 http://www.viva-edo.com/edo_hanni.html 2について・・・ Yes 3と4について・・・ No・・・千住大橋までが御府内です。ただし、江戸の範囲(御府内ではなく)としては千住宿までを江戸と呼ぶこととしています。 5について・・・ No・・・意外ともっと広い範囲が御府内です。(URL参照) 6について・・・ >>そしたら若年寄から裁決があった、“川の真ん中だ”、と。 こういう話は、私は知りません。 ただ、後述のように目付けが老中に上申して同心の見回り範囲が示されました。 (よもやま話) 御府内の範囲の変遷。 *慶長8(1603)年・・・千代田城二里四方。内神田、日本橋、浜町、麹町、常盤橋など計三百町の町割が完了し、この範囲を町奉行所の管轄地とした。この地域を「古町」と呼んだ。 *明暦3(1657)年1月18日~20日におよんだ明暦の大火の後、曲輪(くるわ=城を中心とした一定の地域。郭とも書く)内の寺院を江戸郊外に移転させるなどの大規模な都市改造がおこなわれ、郊外として挙げられたのは、深川、浅草、駒込、目黒で、ここまでを江戸と呼ぶこととする。さらに数年を経て、江戸と呼ばれる範囲は五里四方に拡大し、深川、本所、浅草、駒込、小石川、小日向、牛込、四谷、赤坂、麻布、芝までが江戸の範囲と定められたが、これらは「府外」と呼ばれ、「府内」とは、依然として、古町の範囲だけであった。 *万治元(1660)年・・・当時は東の隅田川より向こうは「下総国」と呼ばれており、江戸と下総の両方の国にまたがるということで命名された「両国橋」完成。同時に、両国橋より東も武蔵国に編入され、江戸の市街地に加えられた。 *寛文2(1662)年・・・南は高輪、北は坂本(浅草)、東は今戸橋までを関東郡代から町奉行所に「警察権」のみ委譲。この地域はまだまだ開発がされておらず、田畑が多かったため、犯罪も少なかったので、町奉行が常時取り締まる必要がなかったが、ここで初めて町奉行所の管轄範囲が広がる。しかし、定町廻り同心の範囲は、依然として、二里四方(サイトに示した「墨線」の部分)。 *寛文5(1665)年・・・品川(東海道)、千住(日光街道)、板橋(中山道)、高井戸(甲州街道)の四宿内を江戸内と呼び、江戸内への(庶民の)旅人の駕籠の乗り入れ禁止令を出す。(街道筋での利用は認められていた)。なお、駕籠の乗り入れ禁止令は、たびたび発令されたが守られず、享保11(1726)年に禁止令は解除された。 *明和2(1765)年・・・御番所(庶民は「町奉行所」とは呼ばず、通常は「御番所」と呼んでいました)での判決の中の「江戸所払い」の刑では、品川、板橋、千住、本所、深川、四谷大木戸から追放することと決まる。従って、この範囲までが町奉行所の管轄となった。しかし、内藤新宿は御城から近いにもかかわらず、管轄外であった。 *寛政3(1791)年・・・東は常盤橋門、西は半蔵門、南は桜田門、北は神田橋門の江戸曲輪内四里四方を御府内と定める。旗本や御家人が御府内を出る時には「届出」を必要としたために決めたが、東北東とか西北西などの東西南北以外では、依然、あいまいだった。 *文政元(1818)年8月・・・目付牧野助左右衛門から「御府内外境筋之儀」というお伺い書が老中に出されたのを契機に、勘定奉行、評定所等で打ち合わせが繰り返され、同年12月に東は中川、西は神田上水、南は目黒川、北は荒川や石神井川下流を結んで、老中が初めて絵図面に朱線を引き、老中としての見解を明確にした。この朱線を「御朱印図」(または「朱引図」)と呼びました。従って、この範囲までの「警察権」のみが町奉行所の範囲。しかし、同時に町奉行所の定町廻り同心の管轄範囲として、二里四方に墨線が引かれてあり、奉行所の「定町廻り同心」は、この範囲を廻っていれば良かった。つまり、犯罪が起きた時だけ、朱線内であれば出張った。だが、ご存知のように、御城近辺はかなりの町割り図がはっきりとしているものの、それ以外は、「田地」「畑地」とおおざっぱであったので、実際に「ここまで」「これ以外」という区別はつきにくかった。さらに、サイトでも分かるように、目黒不動尊の辺りでは、朱引の外に墨線が引かれる、と言う矛盾もあった。 目付は旗本や御家人の取り締まりをする役目。なお、大名を取り締まるのは大目付でした。 *江戸は、もちろん、政治の中心地であったが、墨線内(町奉行所の管轄)の半分が武家屋敷、あとは、農地が35%、町地は15%で、朱印内を含めると農地が半分以上を占めていて、政治の中心地とは言っても、意外と「農地」が多かった。

krya1998
質問者

お礼

 やはりbungetsu先生しか、ご回答をいただけないと思っていました。  先生のhttp://www.k2.dion.ne.jp/~bungetsu/に質問しようかどうしようか迷ったのですが、先生におは会い出来てよかった。  郭というと遊郭しか観念できませんでしたが、元の意味は江戸城を中心とした郭なんですね。  江戸府、そしてまた町奉行の管轄というのも時代で変わり、相対的なあゆみなんですね。    昨日、東部伊勢崎線の走る曳舟から堀切までを所用で通り、線路が荒川土手に密着するところで不自然な道路途絶(線路にそって通じている道路がある小さな民家で完全に途絶し(鐘が淵)その民家の向こうからまた、道路がはしっている。広い道路なんですが)しているのをみて、江戸の範囲ってどうなんだろう、と疑問に思いました。  その民家を含む周囲の民家(途絶した地域です)はやはり、お江戸の庶民の家の住いと路地が残っているのですね。  それが、東武伊勢崎線の堀切を出て柳原や曙町あたりもそういう道路と路地があるのですね。  堀切駅を間にその両地域には、小さな鉄工場というも祠堂あったりして、多分講もあるのだろうと存じました。  そんな不思議な地域性をみて、思いを馳せた次第でした。  有り難う御座いました。川の真ん中を与力同心の所轄地域の分岐とするのは、鐘淵あたりの隅田川の蛇行するあたりの、隅田川のようですね。  有り難う御座いました。  戴いた地図とご解説を以って、江戸府内と町奉行並びに与力同心の所轄区域として認識していきます。

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