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邪馬台国
文献に邪馬壹国は1回のみ記されてますが邪馬台国はなかった!卑弥呼もいなかった!とされるのは何故ですか? 本当に無かったとすると(1)卑弥呼が魏に使いを送ると言う記事(2)いよの存在(3)吉野ヶ里遺跡、箸塚古墳は誰の物になるのでしょうか。
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No.2です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 お礼にご意見がありましたので追加の説明をさせて頂きます。 >中国には邪馬台国の記述があり、日本に全く記述が無いのも変ですね。 変というか文献史料が残っていないということです。 古事記、日本書紀が最も古い歴史書とされていますがこの二つに記載されていないということです。 古事記よりも古い国記、天皇記、帝紀、旧辞、などと呼ばれる文献があったようですが何れも戦乱などで焼失してしまっていて現存していません。 もしかするとこれ等の古い文献には書かれていたかもしれませんが不明です。 >吉野ヶ里遺跡、箸塚古墳は別の権力者のもの、若しくは天照を形にした象徴的な物ですかね。 古事記や日本書紀には何故か古墳に関する記述がありません。 巨大な古墳が作られた時期(3世紀末~5世紀初頭)の日本に関しては中国の文献にも記載されていません。 大量の労働力を長期間動員できるだけの権力者がいたであろうと推測できますが、この権力者に関する記述が全くありません。 巨大古墳を天皇陵としているのは宮内庁ですが裏付けが全くありません。 従って天皇家の始祖である天照大御神と古墳との関わり合いは全く不明です。 九州には霧島市の上野原に日本最古と言われる広大な遺跡があります。 邪馬台国論争では魏志倭人伝に記載されている旅程の読み取り方次第では吉野ケ里遺跡よりも上野原遺跡の方が妥当だという説もあります。 参考 南九州・上野原遺跡 - 邪馬台国大研究 http://inoues.net/ruins/uenohara.html
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邪馬台国は確かにありました。そして卑弥呼もいましたが、日本の文献に記されていないのは、卑弥呼が元々、後の日本となった邪馬台国に住んでいた人物ではなく、はるか遠くの国からやってきた「渡来人」だったからだろうということが学者の間で話題になっています。では、彼女はどこからやってきたのでしょうか ?それは日本が大和の国と呼ばれるようになる以前、シルクロードを通って中国を経由してイスラエルの地からやってきたのです。この地にやってきた古代イスラエル人(ユダヤ民族)はまず初めに九州の地を足掛かりに小さな国を作っていきました。古代のイスラエル人は12の支族からなりたっていましたが、そのうちのいくつかの支族だけが日本にやってきて、それぞれが独自に小さな国を作っていったのです。そのうちのひとつが邪馬台国であったわけで、そこを統治していた卑弥呼がそれら小さな国をもとりまとめていました。 わかりやすくいうと、かつてのソビエト連邦のような連邦国家だったわけです。 後に「大和の国」と呼ばれるようになったのは卑弥呼の死後、渡来人であった古代イスラエルの支族たちの一部は再び大陸に渡り、景教徒となり、また、あるものは日本の地に帰化して、養蚕や農耕などの技術を残していったのだろうといわれています。そして帰化した彼らは日本に「神道」なるものも残した。 「神道」のルーツは実は古代イスラエルにあったのです。 日本にある「三種の神器」はイスラエルにもありますが、それ以外の他のどの国にも「三種の神器」は存在しません。 京都に平安京を作ったのはイスラエル人(ユダヤ人)です。 「平安京」をヘブライ語で「イールシャライム」といいますが、これは「エルサレム」のことを指しています。 信じるか信じないかは個人の自由ですが、聖徳太子も実は渡来人(古代イスラエル人)だったのではないかと言われています。 聖徳太子の本名は「厩戸皇子」(うまやどのおうじ)というそうです。 「うまやど」とは「馬小屋」のことを指します。 つまり馬小屋で生まれた皇子ということです。…ここまで話せばなんとなくこわくなりませんか?馬小屋で生まれた皇子とは、ズバリ「イエスキリスト」のことを指し示しているような気がしてなりません。 「大和の国」である日本が「神の国」と呼ばれるのはヘブライ語の「ヤマトゥ」から来ています。「ヤ」は神のことを指し、「マトゥ」は「民」を指します。 「大和の国」は「神の民の国」という意味です。 詳しくは「日ユ同祖論」を参照してください。 「日ユ同祖論」は日本はもちろん、イスラエルの大学でも現在盛んに研究されています。日本人とユダヤ人のDNAまで比較研究する学者までいます。
- あずき なな(@azuki-7)
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吉野ヶ里遺跡は筑紫国造磐井氏の都だったとも言われています 箸墓古墳が卑弥呼の墓と言ってるのは宮内庁と一部の学者で 正式な根拠はありません 邪馬台国は中国側に文献があるのに日本には無いのが不思議ですね
お礼
磐井氏も有力者だったかも知れませんね。 文献の解りにくくさが、日本古代史の解りにくいところですね。
- ichikawa2017
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>邪馬台国はなかった!卑弥呼もいなかった!とされるのは何故ですか? 何故か、というよりも歴史学者である古田武彦が昭和46年(1971年)に一般の読者向けに書いた「邪馬台国はなかった」という書籍で有名になった説です。 その後古田以外にこの説を唱えた人物がいたかどうかは寡聞にして知りません。 邪馬台国論争というのが歴史マニアの間で繰り広げられていますが、邪馬台国は何処にあったかということに関する議論で邪馬台国があったことが大前提になっています。 ご質問の(1)(2)(3)のいずれも邪馬台国九州説と畿内説とでは異なります。 歴史に関する学会では邪馬台国については関心がありません。 日本列島に集落が古くからあったことについては盛んに議論されていますが、その集落に邪馬台なる固有名詞が付けられていたかどうかについては関心がありません。 理由は、邪馬台国という記述が中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(通称魏志倭人伝)に記載されているだけで他の文献史料が見当たらず、魏書の記述が正確なものなのかどうかが立証できないためです。 歴史学というのは文献(文字資料)を基にする学問ですが、文献に記述されたことを議論する前にその文献の記述が正しいか否かを立証してから議論に入ります。 巷間の邪馬台国論争は魏志倭人伝に史実が記されているという前提でされているのとは本質的に異なります。 考古学は物を基準とした学問です。 民俗学は文献や物ではなく伝承(口伝)や風俗、習慣などを基にする学問です。 歴史学、考古学、民俗学はお互いに補完関係にあります。 吉野ケ里遺跡は考古学者の手によって見つけられましたが邪馬台国と関連付ける文献がないことから歴史学では邪馬台国との関連は不明としています。
お礼
ありがとうございます。 中国には邪馬台国の記述があり、日本に全く記述が無いのも変ですね。邪馬台国ではなく、吉野ヶ里遺跡、箸塚古墳は別の権力者のもの、若しくは天照を形にした象徴的な物ですかね。
- TIGANS
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存在の有無は魏志倭人伝を信じるかどうかってことですね (1)魏志倭人伝の記述自体を疑う (2)魏志倭人伝の記述の矛盾を疑う(真面目に信じると何もない場所になる) といずれかなのでしょう。 吉野ケ里遺跡は直接の関連性は見出されていません。箸塚古墳の埋葬者はまだ確定していません。卑弥呼が魏に使者を送った行為者なのかも不明です。 邪馬台国記述は日本の歴史年代推定としては重要ですが、特定自体にあまり価値はありません。 ただし三角縁銅鏡や金印などの遺物から大陸との国家に近い規模での交流があったことの妥当性は証明されていると考えて良いでしょう。
お礼
確かに文献は嘘も有りますね。 新撰組の永倉とか。 中国には邪馬台国の記述があり、日本に全く記述が無いのもおかしいですね。
お礼
日本古代史の難しいのは、様々な仮説により畿内説、九州説とかが有ること。 また、邪馬台国も卑弥呼も無かったとする説も有ること。 しかし、何れにしても遺跡と遺物は邪馬台国と卑弥呼についての決定的な物が無いですね。 魏に使いを送ると言う記事は本当に卑弥呼がしたのかも怪しい。 邪馬台国は30の国を1つに纏めて呼んでると言う本も有りました。古事記より前の文献は何を元に書かれていたのかがわかると古代史も解りやすくなっていたかったかも知れませんね。