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邪馬台国の謎について
考古学には素人ですが、興味があっていろいろな文献を読んだりしています。考古学の最大の謎は邪馬台国が畿内にあったか北九州にあったかの議論だと思いますが、私はどっちにあったにしても、もう一つ同じ時代に同じ規模の集落(クニ)があり、同時に栄えていたと思うのです。そうしてそのどっちかがいわゆる邪馬台国で、もう一方は別の国だったと思います。 そもそも当時の倭国にかんする記述は魏志倭人伝の2千文字しかなく、それ以外の記録は一切ありません。もしこの魏志倭人伝すらなかったら、「邪馬台国」の存在自自体が分からなかったことになります。同様に、記録には残らなかったが実在した国は多数あったはずで、仮に邪馬台国が北九州だとしたら畿内の纏向遺跡や箸墓古墳は別の同じ規模の国王が住んでいた場所で、邪馬台国が機内だったら北九州は別の王が住んでいた巨大集落だったということだと思います。 要するに記録が1つしかないから畿内か北九州かの一元論になってしまい、実際にはいろんな大規模集落があちこちにあり、それぞれに倭国の王とおぼしき人物がいたんだろうと思います。 けっして当時の倭王が卑弥呼だけだったとは思えません。 従って魏志倭人伝だけを根拠にして邪馬台国がどこにあったのかを議論すること自体ナンセンスで、そこは倭国全体の中心地点だった証明にはならないと思います。 邪馬台国論争はいつの時代でもいろんな学者がいろんな意見を戦わせていますが、私としては上記のように思います。 いろんなご意見をいただければ幸いです。
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- eroero4649
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>私はどっちにあったにしても、もう一つ同じ時代に同じ規模の集落(クニ)があり、同時に栄えていたと思うのです。そうしてそのどっちかがいわゆる邪馬台国で、もう一方は別の国だったと思います。 それに何か根拠はあるでしょうか。特に根拠がないなら、ただの思い込みといわれても仕方がないんじゃないかなあ。 もし同時に同じ程度に繁栄していた国があったなら、九州側が有利です。単純に中国とは距離が近いですし、なにより中国と接点を持ちたいなら対馬は通らないといけません。余程のことがない限り、対馬は九州の有力国の友好国でしょう。 もし邪馬台国が近畿地方にあったなら、九州地方はその近畿の邪馬台国に従う存在でなければ近畿から中国まで使節団を送ることはできないでしょう。 >実際にはいろんな大規模集落があちこちにあり、それぞれに倭国の王とおぼしき人物がいたんだろうと思います。 >けっして当時の倭王が卑弥呼だけだったとは思えません。 倭国と魏志倭人伝に対する基本的誤解があると思います。他の方も指摘していますが、邪馬台国は魏に直接使節団を送ったから、魏帝から公認を得ることができたのです。 もしかしたら南西諸島沿いに台湾を通じて呉に使節団を送ったクニがあったかもしれません。そして呉王(もしかしたら孫権)から公認をもらったかもしれません。その記録が失われたから残ってないだけでね。 「中国王朝公認の倭国国家」が邪馬台国だったのです。それだけのことです。邪馬台国が「我々が倭国代表です」と魏に使節を送り、魏は国として公式に邪馬台国の存在を認めたのです。 現代の世界で一番世界に影響力を与える国、といえばアメリカ合衆国で異論はないと思います。つい先日にアフガニスタンの親米政権が倒れるまで、アフガニスタン政府は「世界で最も経済的にも軍事的にも強い国であるアメリカ合衆国の公認国家」でした。けれど、彼らが支配できない地域はアフガニスタン国内に沢山ありました。 それと同じで、当時の日本国内には邪馬台国の使節団がいうには30のクニがあり、その中には邪馬台国と関係が良好なクニもあれば対立するクニもあっただろうというだけです。邪馬台国が日本全国を統一していたという証拠はどこにもありません。 私は邪馬台国は纏向遺跡であっただろうなと思っています。 邪馬台国論争で私はいつもこのことを書きますが、昔あるテレビ番組で古代中国語の研究者に後漢時代の読み方で「邪馬台」を読んでもらったら「ヤマタォ」と読まれたのです。まあ普通に考えて「ヤマト」だよねと。 そして纏向遺跡というのは独特の特徴をいくつも持っています。まずなにより非常に大規模で、計画的に整備された当時としては極めて近代的な大都市であったこと、そして日本全国で作られたとみなされる土器が発掘されていること、それに朝鮮半島の土器も出ています。 つまり纏向は非常に大きな都市で日本全国並びに朝鮮半島とも交流があったことが分かります。今のところ弥生時代では随一の「国際都市」だったのです。 私は纏向は今の国連本部みたいな場所だったのではないかなと思います。各国の代表団が集まる場所です。 とはいえ吉野ヶ里遺跡にもまだまだ未発掘の場所があり、そこには弥生時代の遺跡が期待できるあるそうです。そこでまた何か「歴史的新発見」があれば「吉野ヶ里邪馬台国説」も出てくるかと思います。 個人的には九州説のほうが好きなのですが、事実関係を積み上げると纏向遺跡が邪馬台国であるのが一番しっくりくるのではないかなと思います。
- 4500rpm
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>けっして当時の倭王が卑弥呼だけだったとは思えません。 →魏志倭人伝に記されているのは、邪馬台国と卑弥呼が中国と接触が有ったから記録に残っただけです。 纏向遺跡のように大きな集落は各地にあったと思います。ただそれは、中国と接触が無かったので記録に残っていないのだと思います。 私は、邪馬台国九州説が妥当だと考えています。また、卑弥呼は古事記の天照大神で、神武東遷により、奈良の集落が征服されたと考えています。 なお、箸墓古墳は、卑弥呼の墓ともいわれていますが、築造の時代は古墳時代と思います。邪馬台国畿内説をとる人たちが、誤差の多い炭素14年代測定法で、無理やり卑弥呼の時代に近づけているだけです。
- oska2
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>魏志倭人伝だけを根拠にして邪馬台国がどこにあったのかを議論すること自体ナンセンス その通りですね。 魏志東夷伝和人条が書かれたのは、魏が崩壊する混乱期の30年前です。 国内が不安定な状態で、正式な情報が集まったか否かは不明ですよね。 その後に書かれた倭国(邪馬台国)の記述は、「福建省での生活と似ている。福建省の近海にある」との記載があります。 ※記載された地域の名前を忘れたので、現在の福建省と書きました。 とすれば、邪馬台国は台湾(大琉球)若しくは沖縄(小琉球)と言う事になりますよね。 また、天皇制を疑わない方たちは「邪馬台国⇒大和朝廷⇒日本」との考えで固まっていますよね。 「日本書紀の内容と異なる意見・内容は、全て偽書・嘘だ!」 江戸時代まで、「阿波風土記」が多く読まれていました。 が、幕末・明治維新後には「新政府が回収・焼却処分」した様です。 日本書紀とは全く異なる記述(天皇を否定する)が存在した為?!とも、言われています。 どうしても、「邪馬台国近畿説」にしないと正当性が壊れます。 新・旧唐記には「倭国は、委奴国」との記載があります。 また面白い記述もありますよ。 「倭国は大国。日本(近畿にあった日下(ひのもと)集落)は小国」 「倭国は、大軍を出して日本を併合(神武東征?)」 「倭国は国号を忌嫌って、日本と称するようになった」 話が逸れましたが、発掘調査などで色々な古代集落・国が見つかっていますよね。 昭和時代の「世界4大文明」は、既に死語になっています。^^; 色んな考えがあっても、良いですよね。
- head1192
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指摘のとおりで、邪馬台国なる国が本当にあったかどうかさえ定かではない。 その存在を指摘しているのは魏志倭人伝だけで、しかもその記述は正確性に欠ける。 記述どおりに地図を辿ると邪馬台国の位置ははるか太平洋上になってしまうそうで、倭人伝には距離と方角しか記されている以上、どちらか(あるいは両方)が間違っているのである。 東大系の学者は距離が間違っているとして場所を九州とし、 京大系の学者は方角が間違っているとして場所を近畿としている。 京大系の主張には地元びいきの要素もあるだろう。 両方間違っているとなればもう比定のしようがない。 当時の日本は小集落の集まりであり、その規模は市町村レベルか、大きくても都道府県規模である。 周囲の弱小国は従えられたとしても、日本全国に影響力を及ぼすにはあまりにも力不足である。 邪馬台国をして「日本国そのもの」というにはあまりにも無理がある。 3世紀は古墳以外の資料がほとんどない考古学の暗黒期。 たまたま倭人伝に記載がありその希少な資料にすがらざるを得ない、そういう状況である。 ところが倭人伝自体客観的でないし学術的でもない。 先に述べた位置の誤りがその例である。 「邪馬台国」「卑弥呼」という名もそうである。 中華思想がありありと現れている。 ふつう自分の国に「邪悪」の邪という字を付けたりそのトップに「卑しい」などという字を当てたりはしないだろう。 当時の中国人が日本人を見下し勝手に名付けた、そういう名なのである。
- SPROCKETER
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オロチという未知の力を持つ英雄の話があったり、古代遺跡の上で未知の力が使えるなど、北九州の可能性が濃厚ですけどね。福岡には神通力が使える人が多数います。