邪馬台国の謎について
考古学には素人ですが、興味があっていろいろな文献を読んだりしています。考古学の最大の謎は邪馬台国が畿内にあったか北九州にあったかの議論だと思いますが、私はどっちにあったにしても、もう一つ同じ時代に同じ規模の集落(クニ)があり、同時に栄えていたと思うのです。そうしてそのどっちかがいわゆる邪馬台国で、もう一方は別の国だったと思います。
そもそも当時の倭国にかんする記述は魏志倭人伝の2千文字しかなく、それ以外の記録は一切ありません。もしこの魏志倭人伝すらなかったら、「邪馬台国」の存在自自体が分からなかったことになります。同様に、記録には残らなかったが実在した国は多数あったはずで、仮に邪馬台国が北九州だとしたら畿内の纏向遺跡や箸墓古墳は別の同じ規模の国王が住んでいた場所で、邪馬台国が機内だったら北九州は別の王が住んでいた巨大集落だったということだと思います。
要するに記録が1つしかないから畿内か北九州かの一元論になってしまい、実際にはいろんな大規模集落があちこちにあり、それぞれに倭国の王とおぼしき人物がいたんだろうと思います。
けっして当時の倭王が卑弥呼だけだったとは思えません。
従って魏志倭人伝だけを根拠にして邪馬台国がどこにあったのかを議論すること自体ナンセンスで、そこは倭国全体の中心地点だった証明にはならないと思います。
邪馬台国論争はいつの時代でもいろんな学者がいろんな意見を戦わせていますが、私としては上記のように思います。
いろんなご意見をいただければ幸いです。
お礼
ありがとうございます。かなり長そうなので、ゆっくり読みたいと思います(^^;)